まえがき

 精神病体験を熟考してゆくと,しばしば主体のパラドックスの問題にぶつかる。なぜ分裂病の人たちは,己れが考えているちょうどその時に,「私は考えさせられている」と主張するのか,あるいは己れの思考内容を,別の主体からの語りかけであると主張するのか。これらの深い疑問は,言語の構造そのものが持っているパラドックスと無関係ではあり得ない。
 一方,精神分析における治療者と患者の関係は,それ自体が一つのパラドックスの経験であると言っても過言ではない。否定によって真実が告げられ,治療時間の切り上げが真の関係の存在を露呈させる。さらに転移性恋愛という微妙な問題がある。転移性恋愛がもし真正の愛ならば,それを無害な治療の道具だと言い張ることは偽善に過ぎず,逆にそれがもし単なる思い込みなら,転移が治療的効果を持つという精神分析家の言明をどうして信用することができようか。この転移性恋愛の成立には,ひょっとしたら,分析家自身の欲望が,深い動因として働いていないだろうか。
 精神病体験が,考える主体のパラドックスという一つの軸によって探究されうるとするならば,精神分析の体験がそこに生かされないはずはない。精神分析という場がしばしば精神病性反応を引き起こす形成力を備えていることは偶然ではない。精神分析の過程は,どこかで精神病生成の道と,交錯しているのである。
 このような着想は,精神療法的経験の中で,多くの人の脳裡をよぎるものではないかと思う。私をラカンの方に導いたのもこの着想であった。とりわけ彼の『セミネール』の第11巻は,精神病体験におけるパラドックスの重要性について,私に決定的な示唆を与えた。
 パラドックスを足場として研究するとき,患者との関係が,観察者と対象という一方向的な枠組からはみ出してしまうことは避け難い。私の臨床経験の中で,この方向性が逆転してしまいそうになるシーソーのバランス状態のような瞬間がいくつかあったように思う。そういった瞬間には必ず,自分が精神分析という治療的世界にいるのか,精神病体験の中に巻き込まれたのかが,不分明になっていた。
 精神病体験と,精神分析における転移体験とは,まことに双生児的な二つの分野である。ふり返ってみると,その二つの分野の連続性を内的に,いいかえれば私自身の思考のパラドックスを通じて構成することを,これらの論考を通じて私はずっと求めていたように思う。論文集という形でこの根本的な希求がどこまで満たされているかはきわめて心もとない。とはいえ小著が,考える主体のパラドックスという観点を,精神病体験を考える軸として,ささやかな形においてであれ明るみにもたらし得ているとすれば,著者としてこれにまさる喜びはない。
 本書の書名は,無意識を通じて精神病理現象を見るという,基本的な立場を示している。メラニー・クラインにとっても,ジャック・ラカンにとっても,無意識はパラドキシカルな構造を持っていた。クラインの精神内界論における生と死の欲動の循環,そしてラカンにおける「シニフィアンと主体の関係」,これらはともに,パラドックスの問題に触れている。考える主体のパラドックスが,無意識の発生に当たって中心的な役割を演ずることを,二人の精神分析家は見逃さなかったのである。もちろん二人の発想の淵源に,フロイトの独創的な欲動論があることは言うまでもないであろう。本書の各章は,このような意味での無意識が精神病理現象の構成にかかわっていることを,あるいは理論的に論証し,あるいは症例によって示唆することになる。
 ……(後略)

1989年7月 著者