序論

 この本は精神科医の自助体験を探っている。マサチューセッツ総合病院でのオートグノーシス・セミナーに参加した精神科医による,個人的な報告が集められており,その精神科医が自分自身について何を学び,またそれをいかにして学んだかについて,何らかのことが明らかにされている。精神科医でない読者でも,ここに明らかにされていることは,もろもろの技法を獲得し,自分自身に関する有益な知識を増進するのに,示唆に富み役に立つと思われることだろう。
 オートグノーシス・セミナーを企画した当初の目的は,精神科のトレーニングを受けている者を擁護することであった。1960年代の末,私は次第に,精神科レジデントに,特にそのトレーニングの初年度に加わるストレスに,関心をもつようになっていった。このような関心は,クリニカル・スーパーヴァイザーおよびインストラクターとしての私の体験から起こってきたものである。
 精神科医一般,そして特に精神科のトレーニングを受けている者に加わる感情的なストレスはしばしば強烈なものになる。その当時に戻ると,精神科レジデントの擁護に役立てられる手段にはいくつかのものがあった。その中には,精神分析,精神療法,そしてもっと支持的なスーパーヴァイズの体験を積むこと,などが含まれていた。もう一つの擁護の(しかししばしばまたストレスの源にもなる)手段は,トレーニング・グループ,「Tグループ」であった。
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 もっと幅の広いセミナーが必要とされていたわけである。次の年,タイトルは『オートグノーシス』に変更され,主題となる事柄は,あらゆる職業的立場にいる初年度のレジデントが味わう主観的体験をカバーするまでにふくらんだ。論文は,一対一の臨床体験の範囲を越えた主題に関する論文も含む,逆転移および自己分析に関する文献の中から選ばれた。これらの中には,教育を受けている最中の人々が味わう主観的体験,そして地域精神保健に関する論文,また迫害の犠牲者に対する反応に関しての論文,などが含まれていた。
 引き続く何年かの間に,もう一つの特徴が加わってセミナーの枠組みを豊かなものにした。レジデントが,指定された論文リストに載っていない論文で組み立てた個人的な提示を行ったり,自分自身の臨床体験に関する提示を行ったりしたのである。彼らはまた,そうしたいと思ったら,自分自身に関する何がしかのこと,つまり彼らが自分自身に関して何を学び,またそれをいかにして学んだかということの,情報や議論を提示したりもした。
 最も印象深かったのは,この最後のカテゴリーの提示であった。いくつかは,レジデントにとってだけでなく私にとっても,感動的で,かつ非常に示唆に富んでいた。それらがもとにしているものとなると,これはきわめて多様で,自分自身の個人的な日誌や日記からとった素材,時には特別なテーマにそった素材を提示したレジデントも少数いた。そのような一つの例が,そのレジデントがどのようにして医学畑を選んだのかというものであった。それとはまた別の提示は,彼らの文学に対する反応に関連していた。そうしたレジデントの一人は,生まれてから三つの別々の時期に『白鯨』を読んでいて,その時々の読書が彼の自分自身の理解にいかに影響を与えたかを語っていた。
 数年にわたって,こうした提示を聞き,その討論に参加することは,私にとっては素晴らしい特権であった。だから,これは他の人々にとっても同様に価値のあるものであろうと思われた。この本はそうした期待を満たす一つの試みである。
 本というかたちでは,セミナーでは可能な相互的な参加を実現することはできないが,読者にいくつかの実例を提供することはできる。ここには,注意深く選ばれた,自分自身について学ぶことにきわめて意欲的に取り組んだ医師のアプローチが,いくつか例としてあげてある。おのおののエッセイの前後に入れた私のコメントは,セミナーで議論されたであろうようなテーマや見解に注意を促すものである。
 もともと,このセミナーの目的は,レジデント期間中のトレーニングに由来するストレスからレジデントを擁護し,抑うつ,不安,アルコール依存,夫婦間の不和,その他の感情的ストレスを示す症状の,重さや頻度を減らすことであった。しかし,セミナーの作業,そしてそれが触媒のはたらきをするプロセスが示唆していたことは,われわれは精神病理現象からの擁護を越えてさらに先に進んでいくことができるだろうということであった。つまり,われわれは,能力の増強に向かって,感情的な能力の増強を推し進める方向に向かって,われわれが進めつつあった討論と方法を通して前進することができるだろうということである。
 逆転移に関する初期の研究や論文は,それが精神分析や精神療法の妨げとなることに焦点を合わせていたが,結局のところは,逆転移は洞察の源泉であるということが明らかになってきたのである。同じように,セミナーの中でわれわれはトレーニングの妨げとなるものを防止することを試みてきたわけであるが,トレーニングで得られる新たな洞察や強化は,オートグノーシスを通してさらに発達させることができることを認識し始めた。レジデントが心の中の作業についてよりよく知ることによって,より強くなれるだけでなく,より有能な診断家,そしてより有能な治療者にもなれると,感じるようになったのである。
 数年にわたるこのセミナーの指導者として,私は,いくつかの原則が,オートグノーシスの有効な教育に妥当すると考えるようになった。  このようなセミナーを進めていくことを考えていたり,その下部構造をもっとよく知りたいと思っている読者には,そうした見解も役に立つと感じられるだろう。
 その中の第一は,それは実際に達成可能なものである,という認識をもつということである。精神分析の歴史の中で,ある者は,唯一現実的に有益な自己・知は,古典的な精神分析を受けることから得られると主張していた。他の者はこの概念を拡大して,臨床家の側で自己・知を得る一つの可能な源泉として精神力動的精神療法を含むようにした。私のこのセミナーの体験から示唆されるのは,臨床的に有益な自己・知は,ほとんどすべての人類が用いることのできる感情的な固有知覚を,念入りにかつ系統的に養っていくことによって,得られるということである。
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オートグノーシスの視野

 逆転移は,被分析者すなわち患者への臨床家の主観的な反応を指し示すものである。自己分析は,分析家あるいは精神分析を受けてきた人々が自分自身について何を学んだか,そしてそれをいかにして学んだかを扱う。
 オートグノーシスは,同僚,患者,他のさまざまの研究領域の精神保健の専門家たちへの反応,および,官僚制度,医療供給システムや,臨床家が職業上の役割の中で出会う他の諸々の体験への反応などを包括する。
 オートグノーシスはいくつかの次元をもっている。それは,個人が自己とその主観性とについて作り上げる一体となった知識である。それは,彼あるいは彼女がこのような知識を獲得する方法とプロセスを含んでいる。また自己についてのこの知識が,個人の発達や精神力を増進し,職業上の問題を解決するのに適用されうるような,方法をも含んでいる。
 オートグノーシスは,どのような心理学の学派や視点への信奉も必要としない。それは自由連想に頼るものではない。しかしそれを利用してもべつに構わない。力動的な無意識といった概念に頼ることさえない。もっとも,私の経験では,そうした概念はその人のオートグノーシス的な蓄積への有意義な付加にはなりうる。
 オートグノーシスは,観察,その人の知識や理解を増すための一式の手続きの構成,そして,そのような理解の建設的な仕方での適用とを含んでいる。それは,精神内的な活動全般にわたる一つのスペクトルをなしている。逆転移はそのようなスペクトルの一断片であり,自己分析はそのもう一つの断片なのである。オートグノーシスにおいてわれわれは,われわれのする反応を認識し,そうした反応を最も有効に適用するためにそれを分類する方法を見つけ出す必要がある。
 そうした適用は,ただたんにわれわれ自身が受ける傷を防ぐのに向けられているばかりでなく,また臨床状況の中で患者が被る傷を防ぐのにも向けられている。そしてまた,われわれ自身の能力や感情的な活力を増大させ,われわれが専念する職業の状況を拡大することにも,あてられているのである。
 職業的なものを個人的なものから切り離そうとするのは,人為的なしわざである。セミナーの中で,このような人為的な境界付けを認識した上で,われわれはできる限り,個人的なものよりはむしろわれわれの体験の職業的な側面の方に焦点を合わせている。しかしその境界はきわめて浸透性が高く,われわれは,一方の領域を用いて他方の領域を豊かにするということもできるのである。  精神医学という医学専門分野での実践家は,これらのエッセイの中に,なじみの体験を見出されることだろう。他の介助的な専門職,特に精神保健に関連した専門職の一員もまた,多くの身に覚えのあるものを見出されるだろう。他の職業をもつ読者は,これらの著者とある程度の同一化を達成するために,自分たち自身の体験を語る言葉に翻訳する必要があるかもしれない。
 多分そのようなとらえ直しのための鍵となるものは,患者を,自分が重要な社会的ないし個人的な責任を負っている人物に見立てるということである。そのような定義のし直しをすれば,ここに記述された体験は,モデルないしガイドとして,より有意義に役立てられることだろう。
 著者たちと編者は,以下に続く打ち明け話が,読者自身の内に向かっての探索の励ましとして手助けになればと願っている。