訳者あとがき

 本書は,AUTOGNOSIS : How Psychiatrists Analyze Themselves, edited by Edward Messner, James E. Groves and Jonathan H. Schwartz, Year Book Medical Publishers, l989. の全訳である。…………
 本書のテーマ「オートグノーシス」については編者が序文で懇切丁寧に解説しており,ここで蛇足をつけ加える必要はないほどであるが,それによれば,「オートグノーシス・セミナー」がもたれた当初の目的は,「精神科のトレーニングを受けている者を擁護すること」であったという。事実,トレーニングと言えば,わが国でも,近年の急速な医学的知識の拡大,医療技術の高度化にともなって,医学研修プログラムも,国家的規模で,また研修が行われる各大学・医療施設で,さまざまの制度的な工夫・検討がなされている。しかしながら,どうも精神科に限らず,医療が最終的に拠って立つところの「臨床の知」は,そうしたいわば体系化された技術・学問としての「知」の伝達とはなじまない部分をかなりもっているように思われるのである。むしろ「研修」プログラムが精緻に,また広汎にわたるものになればなるほど,この「臨床の知」を身につける余裕・チャンスは縮小されていくのではないかとも危慎される。
 そうした「臨床の知」は本質的に,熟練・練達の域に達した師から教え込まれるとか,学びとられるとかいったものではなさそうなのである。このような「知」,知識というよりは知恵ないし智慧を身につけるには,さまざまの要素を含んだ「臨床経験」を通して,臨床に携わる「主体」としての治療者の中に生じてくる何かに,その治療者本人が気づくということの方がずっと重要なのである。しかしこのことは,もちろん,それが臨床に携わりはじめたばかりの者の孤独な作業であってよいということではない。そうしたプロセスが促進されるよう彼らを擁護し,援助できるシステムこそが必要だろう。「オートグノーシス・セミナー」はまさにそのような真摯な試みのーつであり,ここに集められた24編のエッセイが単なる臨床研修体験談に終わらず,「臨床の知」獲得のさまざまの様態のドキュメント・リポートたりえていることが,それを見事に物語っている。そのような意味で,臨床を学びつつある人々だけでなく,最近,哲学者の中村雄二郎氏の著書などでより広い視点から論じられてもいる「臨床の知」というものを真剣に考える人々に,本書は大きなヒントになるはずである。
 訳者たちは全員,本書のもととなった「オートグノーシス・セミナー」が開催されたマサチューセッツ総合病院と同じような,ほぼ医療全科をカバーし救急医療も担当する都立広尾病院に現に勤務している,あるいは以前勤務していた医師である。この病院でも多くの若い医師が研修を行っており,本書に収められたエッセイで論じられているようなさまざまの葛藤やストレスフルな状況に出会うことになる。われわれの神経科でも週2回行われるカンファランス,月2回の抄読会などを実施し,看護者,臨床心理士を含めた医療者相互の研修・研鑚の機会にしているが,訳者の一人がその抄読会で本書を紹介したところ,若い医師たちを中心にぜひ本書をテクストにした輪読会をしようということになった。…………それぞれのエッセイはスタイルも内容も実にさまざまかつ自由であり,翻訳には手を焼かなかったわけではないが,読む立場になってみれば,各エッセイの長さはちょうど手ごろで,学術書にはない気軽な趣がある。どこから読んでも,どのような読み方でもよいのではなかろうか。臨床の合間,休日,臨床上で何かヒントが欲しくなったとき,何度でも手にとって欲しい書物である。きっと読むものにその都度何かを残してくれるだろう。
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訳者を代表して 新谷昌宏