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「訳者あとがき」より

 ラングスの精神療法は,英米では非常に良く知られています。ただ日本では,その著作のほとんどが大著のために翻訳が難しかったので,ほとんど紹介されてきませんでした。私が本書を紹介しようと思ったきっかけもここにあります。ラングスの著作の中で本書はどちらかというとコンパクトですし,その考え方をだいたいおさらいしています。
 ラングスは1971年にシカゴ医学校を卒業,その後,ダウンステイト精神分析研究所で研修を済ませ,アメリカ精神分析協会のメンバーになっています。それ以降は,病院などのスーパーヴィジョンを主たる仕事にしながら,30冊以上の本を書いています。驚くほどの生産力ですが,彼は語る人らしく,本の多くは口述筆記のものが多いように見えます。本書はそのなかでも書かれたものらしいのですが,翻訳を「ですます」調にしたのは,彼のこうしたスタンスのためです。現在,ラングスはいくつかの臨床教授をしながら,ニューヨークでコミュニカティヴな精神分析のセンターでディレクターをやっています。ちなみに英国中心で発展してきた国際精神分析協会では,彼の論文を引用する人はいますが,そこでラングスが主要なポストについたことはありませんし,自らゴーイング・マイウェイで,精神分析的精神療法のための国際誌を発行することをはじめとして,国際協会ともうまくいかないようです。むしろそれらのエスタブリッシュメントに対して,反旗を翻しているような姿勢すら見ることができます。
 ……教科書の書き手というイメージがあって,ラングスの精神療法がそうした狭い精神分析の伝統から,どうも一歩踏み出したものらしいということに気がつくのに,逆に時間がかかったということも事実です。特に,彼が言う「コミュニカティヴなアプローチ」というものは,本書で精神分析的指向の精神療法と比較対比されているように,明らかに新しい技法なのです。
 ここではその「新しさ」について,少しお話ししましょう。どのような方向からも語ることができますが,とりあえず,逆転移の議論の歴史から入っていきます。逆転移というのは,ユングがフロイトに提案した概念だと言われていますが,フロイトはあまり述べていません。ですから,この概念を治療の中で重視しはじめたのは,フロイト以後の分析家たちです。しかもそれが分析家の人格で治療に関するすべてをそう呼ぶか,あるいは転移によって生じる分析家のなかの無意識的な反応だけをそう呼ぶかという二つの軸があって,その間に大きな幅があり,分析家によってまちまちです。ただフロイトが当初考えたことはまず,

 1 治療はできるかぎりクライエントの転移だけが投影されるのが望ましいので,逆転移はその障害であり,治療者の個人分析によってできるかぎり除去されることが望ましい,というものです。これは教育分析とセットになった,「障害」としての逆転移観と言ってもいいでしょう。
 それに対して,その後,英国ではマイケル・バリント,マーガレット・リトル,そしてドナルド・ウィニコットなど,いわゆる英国独立学派の精神分析の仕事によって,そして米国ではアニー・ライヒの「逆転移について」という論文で,逆転移のなかには「特殊な逆転移」と呼べるようなものがあることが分かってきました。それは主に重症のクライエントとの関係から分かってきたことなのですが,私たち治療者が特定のクライエントの話に耳を傾けているとどうしても,腹が立ったり,いらいらしたり,うんざりしてしまう。あるいは時には行動として遅刻したりしてしまうのです。こうした現象を,単に障害として考えず,特殊な病理の反映として見なそうとした,そういう考え方をした人たちがいたわけです。この場合,特殊な転移反応があって,それに対する逆転移があると考えているわけですから,ある種の逆転移は,治療者個人のものではなく,病理発生的だと,そう考えるのです。すると,ウィニコットが言ったことなんですが,それらの逆転移は「客観的」なものになって,それは病理の診断的な役割を果たすことになります。つまり,
 2 ある種の逆転移は,治療者がそれに気づくことによって,クライエントの病理の診断的な役割を果たしており,それによって,クライエントの内的世界を映す鏡として利用できる,と考えるわけです。これは「診断」としての逆転移の利用と言ってもいいでしょう。

 一番目と二番目の間にはとても大きな飛躍があります。一番目は,それが個人的で,あってはならないものだったのですが,二番目は精神病理にとって普遍的で,しかも診断に利用することができるものになっているのです。ここまでくると,クライン以後のクライン派の人たちが考えた発想に近づきます。クラインその人はそうではありませんでしたが,クライン派の人たちははやくから,逆転移は利用可能でしかも治療の道具なのではないかと考えていました。このこと,つまり,治療の道具として治療者の感情を使うという点を明示的に最初に述べたのは,おそらくクライン派出身のパウラ・ハイマンですが,彼女をはじめとしてウィルフレッド・ビオンを通じて,投影同一視というメカニズムを治療機序の説明の重要な要素と考えるようになってきたのです。彼らは,クライエントが母親の中に悪いものを投影して,それを取り込むという循環的なプロセスが,治療場面でも起きると考えています。そしてビオンが言ったように,治療者はそれを「解毒」してクライエントに返すという,幼児期に良い乳房を子どもが取り込むのと同じプロセスを提供する人です。そこでは,クライエントがしていることを治療者がどのように感じるかが,治療の大切な道具でもあるのです。すなわち,治療者が自分の感情に気づいて,それについて洞察し,そしてそれをあれこれと「夢想」して返すという,その返しかたが,クライエントを包むための重要な「良い乳房」体験の機会であると考えるのです。ですから,
 3 クライエントを治療者がどのように感じるかは,その病理の重要な情報源だけでなく,その洞察,そして解釈を通じて,それを治療の道具として利用できる,と考えるようになってきたのです。
 さて,でもここまできて,私たちは「逆転移」についての新しい「治療」的理解とフロイトが言った「障害」的理解とが,かならずしも,整合的なものではないということに気がつくと思います。確かに解釈が治療者の逆転移反応に基づいて行われるという言い方は簡単です。もちろん(1)治療者の教育分析,個人分析に対する絶対的な信頼がある,あるいは,(2)すべての現象は転移と逆転移の産物であり,障害はないと考えることはできます。前者は治療者が完全にゼロであって,純粋に転移の観察者,スーパーマンと考える,一種の宗教のように精神分析のことを思っているならば可能でしょうし,後者は意識と無意識の間がごく簡単に交流できると考えるならば可能でしょう。でも,あなたがもし治療者ならば,こう考えて頂きたいのですが,自分が治療をしていて,自分のなかにある種の感情が起きたとします。その場合に,そこであなたは,その感情がどこまで治療によるもので,どこまでが個人的なものと区別できるでしょうか。私は非常に難しいのではないかと思います。ここで私たちは,二つの問題と出くわしています。一つは,どうやって「障害」となる部分を同定するか,そして一つにはそれを排除して,治療的なコミュニケーションを活用するか,ということです。
 ラングスが「新しい」のは,このことを明確にするモデルを立てたことだろうと思います。彼が,右の二つの問いに対して出すであろう解答は実にはっきりしています。その解答は,ある意味で非常に古典的ですが,同時に革新的なものです。
 A 「障害」となる部分は,治療者の枠破り,逸脱した枠である。
 B 治療者がある一定の枠組みを守っている限りにおいて,クライエントの狂気の核が変形された形で表現される。
 ここでの「枠」は,彼が基本原則と呼ぶもので,フロイトが述べた古典的な分析態度とほとんど同じものです。そして,病理の表現についても,変形されたものが表現されるという点でも,フロイトが夢分析で行った解読とほぼ同じことを言っていると考えてよいでしょう。でも違うのは,右の(1)(2)にあったような治療的なオプティミズムではなく,あくまでコミュニケーションの科学として,その姿を再定式化しようとして,そのステップを明確に定型化したという点なのです。これがラングスの「新しさ」です。たとえば,治療者の介入,それが沈黙であれ,解釈であれ,逸脱したアドバイスであれ,それがクライエントの無意識に知覚され,それに引き金として適合した形で変形させ,治療のコミュニケーションに持ち込むというモデルがそこにはあります。文脈適応,選択的知覚,派生,派生的な妥当性の確認といった一連のプロセスの解明は,治療的なコミュニケーションを明確に定式化できるのです。このプロセスは,本書を読み進めば,お分かり頂けれるでしょう。
 ラングスは,逆転移概念は「治療者の狂気」と言ったほうが正確なんだと書いています。彼によれば,精神療法には,「逸脱した枠の精神療法」と「確固とした枠の精神療法」の二つがあります。前者は,枠である基本原則を破ってしまうような精神療法なのですが,これをもたらすのは治療者の「狂気」です。ここで「枠」が非常に重要な治療空間,治療者の大きな仕事は,枠をマネージメントすることであり,それがウィニコットやビオンの言うホールディングやコンテインニングにつながっていることがお分かり頂けるでしょう。それは,治療空間作りと言ってもいいかもしれません。そして基本原則である枠を守れない原因は多くの場合,その逸脱を許容した,あるいや積極的に枠を破ってしまいたい治療者の狂気にあるのです。だから「障害」となるのは「治療者の狂気」なのです。ここでは逆転移という概念が,指標となる行動に変化して,明確に定義されています。そして,逸脱した枠の精神療法では,クライエントが表現する狂気は,治療者の狂気であって,クライエント自身のものではないのです。しかもその発見,つまり解読のプロセスは,上と同じステップで明らかになります。こうしてラングスの議論は「転移‐逆転移」のモデルから一歩踏み出て,それを超えることになります。そして治療者がゼロで,クライエントが病理を持っているというモデル,つまり観察者である治療者が,病人であるクライエントを一方的に癒すのではなく,治療者もクライエントも狂気をもっていて,精神療法はそうした相互の作用が織りなす枠,場(バイパーソナルな場),治療空間であるというオグデン,ストロローといった今日の分析家たちの精神分析に共通するモデルへとジャンプするのです。
 ここで逆転移について私が述べてきたようなことが,ラングスの論考では盛んに起きます。明確なステップをとって,議論していくと既製の概念が崩れていくことはよくあることです。精神分析に関してラングスの議論は,そうした体験がとても多いのです。たとえば「転移」も,彼によれば,フロイトが防衛として後の治療者に提供したモデルということになります。本書の主題ではありませんが,「教育分析」だって,まったく違う見方をすることになります。そしてラングスの理論を理解した後と前とでは,明らかに違う臨床的な体験をするのです。
 確かに「文脈適応」「引き金読解」など分かり難いラングス語が出てくることがあります。でもそれらはコミュニケーションの科学では常識的な用語ですし,ラングスが自分なりの精神分析的な意味を付け加えていますが,意味はそんなに難しくありません(ここらの解説については,以前私が『現代のエスプリ別冊:精神分析の現在』至文堂,で書きました)。ですから,精神分析を知っているならば,その言葉使いにさえ馴れれば,新しい精神分析の地平を見ることができます。それに私は,その解読法について,精神分析的な精神療法を行っている方だけでなく,コミュニケーションの科学を考えている多くの人々が,少なくとも一度は考えてみるべきモデルだと思っています。それだけ面白い議論なのです。
……(略)
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