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「序文」より

 私の父,J・L・モレノ博士の知的な寄与についてのピーター・フェリックス・ケラーマンの素晴らしい作品を紹介するという,思いがけない好機を私は与えられた。組織的で好奇心をそそるようなサイコドラマ理論と治療についてのこの概論は,アメリカの偉大な哲学者,ウイリアム・ジェイムスによってなされた一つの観察を思い起こさせるものがある。ジェイムスは,自分に向けられた選択肢の中からどのような世界観に人が魅了されるかは,彼の気質に非常にかかわりがあると述べている。例を挙げれば哲学的な経験主義者(ジョン・ロックやデビッド・ヒュームのような)は,真実を愛する人になる傾向があり,一方,合理主義の人々は(ヘーゲルなども含まれる)システムや秩序等に興味を示してきた。もちろんここでは,ジェイムスは心理学者として語っているので,哲学者としてではない。どの世界観が真実であるかというような質問に対しては――たとえ,それが適切な質問だとしても――,このような人間についての説明は適当ではないように思われる。
 それでも,ジェイムスの心理学的観察は20世紀の偉大な力動精神医学のコンテクストの中で熟考される価値がある。たとえば,生徒であれ患者であれ,フロイトよりもユングに引き付けられる異なったタイプの人々がいることを考えてみてほしい。もっと衝撃的なことは,どのような種類のものであれ精神分析に強くひかれる人たちと,サイコドラマのような積極的な形式のものにひかれる人たちとの間にある違いである。
 この問題については,私自身がわが家においてちょっと変わり者だったということに気づいてから,その道の権威者たちと話しあってきた。私は素晴らしい父の仕事上の後継者たちに取り囲まれていたが,彼らは,私よりも外向的で,自発性豊かな傾向があることに気が付いた。彼らは彼らが行ったことを書くことよりも,行動することにはるかに興味を持っているように思われた。サイコドラマの実践について私が受けた教育は早い時期に始められたが,哲学や理論への興味は自然にやってきたわけではなかった。
 大学生時代,父の蔵書を点検していくなかで,私のようなサイコドラマの理論的側面の発展に関心を持っていた人々がたくさんいたことを発見して興奮した。この人たちは大方,私が生まれる前の頃の1930年代の中頃から,1950年代の中頃の人たちで,また,そのなかには多くの著名な社会学者や神学者もはいっていた。この頃にビーコンハウスから,それを証明する多くのモノグラフが出版されている。その中では「PsychodramaII」がもっとも知られている。
 なぜ,ほとんど30年に渡って,サイコドラマの理論の発展が比較的に停滞していたかということについて推察することは有益ではないと考える。サイコドラマのプロセスについての理解を広めようとしてきた人たち(比較的にわずかであるが),特に私の母親であるザーカ・T・モレノもそうであったが,その人たちの仕事を軽視していると思われたくないので,〈比較的〉という言葉を用いたのである。しかし,悲しいことにこれらは例外であり,サイコドラマにおいて,概念的な研究は沈滞の状態にあった。
 以前の世代の一人が私の間違いを指摘したように,フェリックス・ケラーマンが私の間違いを教えてくれるかもしれないという期待の実現を喜んで,知的活動についての根本的な心理学的分析にたち戻ってみた。すなわち,サイコドラマティストの新しい世代は熟してきており,サイコドラマにひかれる人たちが,孤独な学術的作業に耐えられないという〈明らかな〉印象が間違いであることを証明しようとしている。事実,ここ10年間旅をして感じることは,特にヨーロッパで感じるのだが,多くの若い心理学者や医師たちがサイコドラマの理論的価値を高めようと努力していることが印象的だった。
 このことはこの本のもっとも重要な唯一の課題へと私を導くことになる。それは彼が自分自身のために用意した企画の中にまさに含まれているのであり,サイコドラマのなかに豊かで独特な理論的構造があるということである。今まで,この理論的な豊かさは見落とされてきた。そして,サイコドラマの技法は他の概念上の注釈,特に精神分析各派のものによって抑えられてきた。この問題は,理論と技法の間に人為的な分離を作りだすという策略に伴う問題である。別な言い方をすると,サイコドラマは,ゆるく組み合わせた治療的な入れ物に過ぎないのに,それはJ・L・モレノが〈創造した〉ものだと誤ってとらえられているということである。しかし,記録を一覧してわかることは,私の父親の考えが時を越えて発展しているように,サイコドラマも時を越えて発展してきたのである。このことはサイコドラマ理論を誰もが受け入れるようにと強要しないまでも,知的で誠実である限り理論を無視しないことが求められるのである。
 このようにケラーマンはサイコドラマの基礎的,理論的,実際的側面を組織的に明確化するという膨大な作業を果たした。この一連の企画の中で彼はいくつかの古い神話を脇に置き新しい概念の土壌を耕したのである。彼にそれができたというのは,一般的でない特別の視点を持ったからであろう。それは精神療法の文献全般に渡る理解力,臨床場面での幅広い体験,豊かな哲学的な想像力,そして,改革者としての素質を含むものなのである。
 このような作業の重要性を軽視することはできない。もしサイコドラマが,最終的に,他の理論的方法によって解体されることがなく,知的な歴史上のたんなる物珍しさとして思い出されるというものであったなら,新しい考えや可能性を刺激し,前進する源としての継続的価値を証明することは困難であろう。より深い方法で,再び明確にできることを証明しない限り,哲学も理論も文明の存続するだけの生命を持ち得ないであろう。さもなければ,それは単なる,血の通わない遺跡であり,天動説の宇宙哲学,気まぐれの医学,理解し利用しようにもほとんど知られない数多くの試みと同じ道を歩んでいただろう。
 サイコドラマに関する文献に関心のある読者は,この10年間,ケラーマンが述べてきているサイコドラマ理論の分析に気づいてきたと思う。いま,彼の努力はより多くの読者に利用されようとしている。本書とともに彼の素晴らしい独自の仕事が,サイコドラマ治療に対するしっかりした概念的基礎をあたえているだけでなく,サイコドラマの基礎の上に立った貴重な思索家の一人としてケラーマンを位置づけるものになっている。私が望んで止まないのは,彼の仕事の諸側面が多くの生産的な話合いと論争に火をつけることであり,そして,それらが創造の波を生じさせる助けとなり,その波に乗って,サイコドラマが人類生存に対して独自の意味を持って第二の世紀へと進むことである。

ジョナサン・D・モレノPh.D.

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