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「あとがき」より

 昨夏,神戸で起きた痛ましい事件直後,お断りしても幾度かマスコミの取材があった。
記者「加害者の少年の魂は救われるとお思いですか?」
 私「難しいですけど,可能性を探すのです」
記者「あの少年に対してですね,社会は怒りと恐怖を感じているのですよ,それでも可能性はありますか?」
 私「可能性を見いだそう,とするところに私どもの営みに基盤があるのです。どう見つけていけるか,そこからが課題です」
記者「厳罰主義がやはり必要だというのが,先進国の主張です」
 私「自律的である,厳しさに耐えて責任をとれるようなるには,かけがえのない自分,生まれてきてよかった,この世は生きるに値する,と思える受け入れられる経験が基礎というか,出発点として要ると思います」
記者「人権思想が先進的に発達している欧米で,少年犯罪に厳罰主義をもって臨む主張が主流になってきたのですよ」
 私「ご遺族のご胸中はお察しするに,言葉に尽くせません。悲痛の極みです……。でも怒りや恐怖で思考の方向づけをしたくないのです。子どもの言動はわれわれ大人の鏡でもありましょう。私たちが作ってきた社会,文化,日々のありかた,自分を振り返ることを抜きに,子どものみを取り上げて論じられません」ここらで,私のコメントは没,と決まる。
 もっと,時流?に即した内容が求められているらしい。
 心理臨床の営みにおいては,個人の内面に寄り添うことはもちろんだが,時代や社会,文化というコンテクストの中に人はある,という視点を忘れてはならない。だが,時代の流れに敏感になりすぎてはいかがなものか。変わるもの,変わらざるもの,変えてはならないもの,これらについてしっかり考えなくてはならない,と思う。可能性の乏しく 見える状況,あるいは成長モデルに則っては処しきれない課題が現実の臨床では多い。そのような場に臨んで,その傍らに居続けて,何から着手できるのか,どうあればよいのか。ここでは,そのいとぐちにでも触れ得たであろうか。
 篤い病の床にある主人の傍らにあって,この一書の書き下ろし部分や補足を書き始め,遅々として筆は進まず,出版社には大層ご迷惑をおかけした。講演や執筆をいつも恥じらい躊躇う私に「そう,ありのままに,等身大で……」と主人は保証してくるのが常であり,本書に収めた調査研究「見えざる世界とのかかわり」などについても,活字にするのをためらうと「君らしい調査だよ」と励ましてくれた。その声が聴かれなくなった今,読者のご叱正,御高見を参考に今後も精進したい,と思う。
……
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