「はじめに」より

 児童虐待という多面的な問題は,それを眺める地点によってさまざまな見えかたをする。児童福祉や小児科学という視点もあろうし,法律家としての視点もあろう。児童心理学ないし発達心理学という視点からは,もっとも重要な側面が見えてくるかも知れないが,本書の視点は,これらのいずれでもない。この本は,精神医学という視点から編まれている。
 このような断りを入れるのは,この本に網羅的で辞典的な役割を期待されても困るからである。児童の保護を始めとするさまざまな現場からは,それぞれの視点にたった専門書の刊行が期待されるが,この本が主な対象としているのは,児童虐待というトラウマを経て成人となった人々である。いわゆる“サバイバー”と呼ばれる人々で,その中には我が子を虐待する親を演じてしまう人たちも含まれる。この本では,こうした人々の姿と形を精神科医の視点からスケッチして,彼らに対する治療の枠組みを提案することを試みた。
 このように言うと,謙虚に聞こえるかも知れないが,実はこの本の基底には壮大な野心がある。たとえばリイナクトメント(reenactment,再演あるいは再上演)という現象について考えてみていただきたい。子ども時代の外傷的事件は,それがたとえ一過性のものであっても,再上演という機制を通じて,その子の生涯に影響を与え続ける。
 レノア・テアの報告したチャウチラ(アメリカ西海岸の町)のスクールバス・ハイジャックで被害に遭った子どもたち26人は,誘拐される直前にバスを降りた一人を含めて全員が,誘拐事件後4年の時点で心的外傷後ストレス性障害(PTSD)の診断を付け得る状態にあった(Terr, C.L. : Chouchilla revisited ; The effects of psychic trauma four years after a school-bus kidnapping. Am.J.Psychiatry, 140 ; 1543-1550, 1983.(穂積由利子訳:チャウチラ再訪.アディクションと家族,15 (2) ; 204-215, 1998))。
 11時間にわたって外の見えない2台のバンに分乗させられ,16時間にわたって生き埋めにされた25人の子どもたち(7〜14歳)のうち,14歳と12歳の男の子二人が自力でシャベルを探しあてて穴を穿ち,25人全員が生き残った。この穴掘り作業の際に,それを手伝える位置にいながら,体力がなくて“英雄”になり損ねた10歳の肥満児がいた。この3人のうち2人の人生は,事件後4〜5年というわずかな期間のうちに,事件の影響を決定的に受けた。英雄の一人ボブは,18歳の時点でロデオの演技者という危険な仕事に就こうとしていた。英雄になり損ねたジョニーは,事件後体重を落とし,筋肉をつけることに熱心になった。彼は父親の経営する配管設備の会社で筋肉労働を手伝うようになり,大人の労働者たちに混じって働いた。そして15歳になったとき,父親の工場で,倒れてきた起重機の下敷きになって死んだ。
 チャウチラの子どもたちのうち14人は,自分が死ぬ夢に脅かされていた。悪夢を見ながら覚えていない子どもたちもいて,彼らには夢遊歩行や夢をみながらのおしゃべりがみられた。25人のうち23人までが,子どもにふさわしからぬ哲学的な厭世観にとらわれていて,自分には未来がないと考えていた。4年後調査のとき11歳だった少女は次のようなことを事務的な口調で言ったそうだ。「私は若いうちに死ぬと思います。それは確かです。たぶん12歳くらいで。誰かが来て,私を銃で殺すでしょう」
 単一トラウマでさえ,このように明確な影響を残すとすると,児童虐待のように日常で繰り返される外傷体験が子どもの心にもたらすものはさらに大きかろう。私たちは,ある人物の外傷体験の再上演の連続に接して,それをその人の人格と考えてしまっているのかも知れない。そのことを多少でも明確にしたい,というのが今の私の野心である。
 本書は『児童虐待[危機介入編]』(金剛出版)の続編にあたる。2つの本は間をおかずに刊行する予定であったのだが,私の都合で大幅に遅れてしまった。この間,私自身の児童虐待にかかわる位置に大きな変化があったからである。この本の編集にとりかかった頃は公立研究所の研究員であったのだが,途中からひとりの臨床医として,児童虐待のサバイバーたちの治療に直接携わるようになった。こういうのをミイラ盗りがミイラになったというのだろうか。研究の1テーマとして治療の現場を見ているうちに,トラウマ理論にもとづいた治療を専門に行なう場所が欲しくなり,それを自分で作ってしまった。当然たくさんの症例に接することになり,新たな経験を重ねた。そうなると,本書のために準備していた原稿が陳腐に思えてきたので,全面的に書き改めた。
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