「日本語版への序文」より

ジェフ・ロバーツJeff Roberts

 我々が著した書物が日本語に翻訳されるということを耳にしたとき,マルコム・パインと私自身を含め,我々のプラクティスの会員全員が,最初は驚きましたが,無論のこと大変うれしく思いました。我々は,この書物が現在英国で実践されているグループ分析を描き出した他に例のない試みであると思っていましたが,日本語へ翻訳されることは,この本における我々のそうした信念を確信させるものであります。この書物には,いくらか多少些末なことをめぐる記載に沿って,いくらかの深淵な洞察が含まれていると,我々は思っています。我々はこの書物が,実際的という意味での,グループ分析についての優れた基礎的教科書であればと願っています。
 ロンドンでの日々の臨床に追われていると,自分たちがやっていることの意義をしばしば忘れてしまうということがあるように思います。我々は,精神療法における現在の潮流,少なくとも連合王国におけるそれには,時々落胆させられがちです。その潮流とは,精神分析的な治療よりも,短期間のカウンセリングや認知行動療法を推奨する傾向のことです。我々は,これについては,単なる流行でしかなく,サッチャーの改革の遺物でもあると思っています。サッチャーは聞くところによると,一度ならず,次のように言ったといわれています。社会といったものはどこにもないと。その言葉を聞いて,我々が対照的に思い出すのは,フークスの次のような明快な所説です。すなわち,その人のグループ・マトリックスなくしては,個人というものはありえない,というものです。彼は,個人であることの経験の重要性を否定しているのではなく,個人がその人の家族や社会または文化的なマトリックスにいかに負うところがあるかという点について,正しく取り上げたのです。
 私は,グループ・マトリックスあるいはコンテクストなくしては,個人は無意味であり,グループでありえず,むしろ,不毛な実体となってしまうと思っています。……
 S・H・フークス(S. H. Foukes)は,グループ分析(グループ分析プラクティスは元来彼の臨床実践でした)を発展させる経過の中で,彼の個人的な天性の資質によって,自分の人生経験と教育とを統合し,人間であるということの意味について深遠な理解をもたらしました。そしてそれによって,彼は,癒しと創造の手段としての治療的小グループを発展させることができました。彼はまた,人間の意識についての洞察を発展させました。彼の仕事が示唆することは,個人の意識(それが存在するという限りにおいて)は,その根源のところでは,能動的な結びつきを求める実体であるということです。フークスにとって,「個人」は,充足感と健康を達成するために,自分自身の中にリーダーシップを見出す必要があるのです。我々が考えるところでは,成功するグループ分析とは,自分自身の中にリーダーを探し,そして発見することを可能にするグループをいいます。すなわち,フークスはこういうのです。グループ分析は,「行動による自我の訓練である」と。我々が願っているのは,それがどのようなところであれ,読者が,フークスが発見したことにたどり着き,そして,彼の方法を正しく継続するようなやり方でそれを応用するのに役立つような,フークス派的な統合の手がかりと里程標が,我々の書物の中にいくらか含まれていればということです。これは重要なことです。
……
 私は,こう言えることをうれしく思いますが,徐々にしかし着実に,世界的規模でグループ分析のネットワークが発展し,関心と活動の拠点の数々をその内に持つにいたったのであります。それは,ニューヨークからカリブ海を抜け,ヨーロッパを過ぎてロシアにいたり,オーストリアへとひろがり,そして今や,我々はそれが日本にも到達したことを知るのです。我々は,世界的規模にわたるグループ分析を通じた親密な仲間の力強く協力的なネットワークの土台を形成するに至っています。そこでは,我々は,創造的な思考方法によって引き寄せられて集い,長期的には,私の信ずるところでは,家族や,組織,社会的集団,またコミュニティーに良い影響を及ぼす潜在的な力によって,集まっているものと思っています。グループ分析は多様なレベルでの結びつきと課題解決を促すものであり,それは,神経生理学的なレベルに始まり,究極的には地球規模のレベルに至るのであります。