今からちょうど100年程前の1895年12月28日(土曜)は,現代の知の動向を考えるうえできわめて意味深い日である。この日に,ドイツのヴュルツブルクで開かれた医学会にて,コンラート・レントゲンは,X線の発見をしるす発表をしている。また,その日の夕方には,パリのグラン・カフェの地下にて,リュミエール兄弟による世界初の一般大衆を対象にした映画上演がおこなわれている。
 人工衛星によって,はるかかなたの世界の要人の動きを写真におさめたり,MRIにより,人間の脳をはじめとした体の様子を手にとるように浮かびあがらせることがいとも容易にできるといった例に示されるように,今日の視覚技術の進歩にはめざましいものがある。こうした現代の知のひとつの決定的な方向を特徴づける視覚的知の優位,あるいはまた計量化のパラダイムの台頭は,1895年のふたつの出来事によりはずみをつけられ出現をみたのである。もちろん,こうした科学的エピステーメは,ヨーロッパの都市で一九世紀初頭にそれなりの定着をみだした資本主義的社会,あるいはこれと対をなす啓蒙主義的精神の延長線上に位置しているのは言うまでもない。分裂病の大量出現ないし事例化がこの時期頃から認められることは,この障害の病理を考える上で一考に値する現象である。
 もう一方で忘れてならないのは,フロイトによる精神分析の粗描が姿を現わすのがちょうど1895年頃にあたっていることである。精神分析はなによりもまず,個々人の固有の言葉,さらには当人自身いまだ知らない沈黙の部分に耳を傾けることを旨とする。その意味で,精神分析は聴取的知を学として成り立たせることを目ざすものといえる。ハイデガーの存在論,あるいはまた,現象学的精神病理学,ないしラカンによる構造論的精神分析はこうした聴取的知の系譜に位置するといえる。
 古来より視覚的知と聴取的知の競合的なせめぎあいがみられているわけだが,現代は視覚的知が人類史上でも類をみない増大をとげたという点できわめて特異である。このことは精神医学の動向にもよくあてはまる。精神障害,とりわけ分裂病の脳の画像研究や,脳内神経伝達物質の研究といった生物学的精神医学の発展,また,それとは逆の,少なくともアメリカ精神医学ではっきりみられる,精神分析の退潮などがそのよい例である。しかしながら,一個の主体としての人間存在そのものの心身両面にまたがる失調・逸脱という病的状態の治療を使命とする精神医学において,視覚的知だけでは明らかに片手おちで,患者自身の言葉,および沈黙の部分に耳を傾ける聴覚的知をないがしろにするわけにはいかない。最近,アメリカでは生物学一辺倒の精神不在の精神医学(mindless psychiatry)に対する反省がなされる機運があるとも聞く。
 さて本書は,できる限り,聴取的知を大切にすることを心がけつつ,臨床の場で生起した病者と私自身のさまざまな出会いの経験をなによりの拠り所として,分裂病について論じた最近の拙論に加筆・修正をおこない一冊の本にまとめたものである。前著『構造論的精神病理学――ハイデガーからラカンへ――』(弘文堂,1995年)において私は,ラカンの理論を精神医学の臨床に根づかせるべく,構造論的精神病理学と銘うって精神病理学のあらたな方法論を提示しつつ,人間の心的身体の基本的骨組を言語に見定める構造論的立場から,分裂病の病態を掘りさげることを試みた。その時の分裂病理解は総じて横断面的なものにとどまっていたという難点があった。
 このところ私は,既に20年を超える臨床経験をふまえ,症例の長期経過,また寛解過程について吟味する作業に少しずつ取りかかっている。そのなかで,分裂病の継時的推移をその病勢に注目して,躁うつ病と多少とも類比的に,力動の亢進の生じる高揚病相とその逆の低迷病相のふたつの病相からなるとする視点の有用性を認識するに至った。経過をあたらめて調べてみると,良好な社会適応をしている患者が意外に多く,分裂病の病勢が軽くなっている印象がある。こうした分裂病の軽症化という現象からしても,私は,痴呆様変化を重要な指標とするクレペリンの分裂病概念を一旦括弧入れし,クレペリン以前の精神医学に立ち戻るのは意義のあることだと考える。ちなみに,グリージンガーにおいて,精神障害を捉える座標軸はマニー-メランコリーであり,クレペリンの注目した痴呆様変化は(急性期後の)「続発性心的衰弱状態」とされている。クレペリンはこの心的衰弱状態を一次的なものとし,早発性痴呆の疾患単位を導いたことを付け加えておこう。
 このようにして,私は,構造論的観点を堅持しつつ,力動論的観点を正面からあらたに導入して,分裂病の病態を縦断的な動き,ひいては寛解過程に留意して,統合的治療にむけた分裂病の病態に対する理解をさらに押し進める必要性を感じた。これが本書の基本的な問題枠である。『分裂病の構造力動論――統合的治療に向けて――」と題したゆえんである。
 構造力動論というと,最近邦訳もされた『精神医学の構造力動的基礎』で示されたヤンツァーリクの理論を思いうかべられる方が多いと思う。たしかに,本書はヤンツァーリクに多くのものを負っている。それは主に力動論的観点においてである。私は,ヤンツァーリクの理論をラカンの構造論的立場によりあらたに捉えかえし,分裂病の病態により密着した構造力動論を展開することを目ざした。
 ヤンツァーリクとラカンの理論は相互補完的な面があるように思われる。ちなみに,ヤンツァーリクのいう構造は,ラカンのいうシニフィアンや象徴界の視点から,人間存在のありように即したより踏みこんだ内実が与えられるはずである。同様に,ヤンツァーリクのいう力動は,後期ラカンが主題化する享楽(jouissance)の概念によってより深い洞察が与えられるはずである。こうみると,構造と力動の密接不可分な関係が一層よく見透せるはずである。逆にまた,ラカンの理論には,病態の力動的ゆらぎ,ないし逸脱についての臨床医学的認識に乏しく,この面はヤンツァーリクの力動論的視点により補われるはずである。
 このような方法論的吟味のもとに,本書において,ヤンツァーリクとラカンのそれぞれの理論を,臨床経験の場に定位して相互受胎させるような仕方で,分裂病に対するあらたな構造力動論を試みた次第である。