「序   言」より

 本書は,失語の臨床と研究にたずさわる人々のために,現在われわれに与えられている最新の知見を結集し,その基礎となる関連諸科学領域との学際的関連をも射程におさめて,少なからぬ数の執筆者のご協力を得て実現したものである。
 失語症状に言及した歴史的記述は,古代ギリシャに遡るとされるが,20世紀最後の年を迎えたわれわれは,永い年月の間に,実にさまざまなことを学んだことが,まず念頭に浮かぶ。最初の画期的貢献となった剖検例報告(Broca),最初の言語障害の単行本刊行(Kussmaul),失語分類を導入した理論的仮説(Wernicke),失読・失書症状の理解の端緒(Dejerine),言語治療の最初の試みなどは,100年から150年近く前のことである。本邦における最初の失語症例記載も,ほぼ1世紀前のことであるが,40〜50年前には井村恒郎,大橋博司先生らの諸先輩による注目すべき著作も世に出た。その後も失語学(Critchley)の進展には,目を見張るものがあり,150年前に置かれた礎石の上で,極めて多様かつ斬新な視点から,また枚挙に暇がない数多くの技術的革新に支えられて日進月歩の発展を遂げてきたし,今後もその歩みを止めることはないであろう。
 しかしながら,これらの学問的努力は何よりもまず,人間にとってかけがえのない言語の障害と,さまざまな生活の苦悩を抱える失語患者との交わりという臨床の場でなされてきたことを,従って失語患者からわれわれが日々学ぶことができたものこそ,まさしく現在の失語学に他ならぬことを,われわれは銘記しなければならぬであろう。時あたかも,失語患者と直に接しつつ,治療と訓練の場で欠くべからざる役割を果たしている聴覚言語士の国家資格が,長年にわたる関係者の努力に支えられて,漸く日の目を見た昨今である。本書には何をおいてもまず,失語と関連症状をもつ人々の診断,治療,ケアとリハビリテーションに際して有用であることが期待される由縁である。もし,われわれの念願通り,そのような意図が本書によって幾分なりとも具現されるのであれば,われわれの喜びはこれにすぐることはない。
……(後略)

濱中淑彦