もどる

「まえがき」

 わが国における「不登校」の子どもの数は年々,増加し続けている。最近では大学生の「不登校」が問題にされている。これは教育の問題でもあるが,現在は,日本の大きい社会問題のひとつにまでなっている,と言っていいだろう。
 不登校の子どもを持った親の苦悩は深い。多くの場合,子どもが「なぜ学校に行かないのか」がわからないために,その苦しみはますます深くなるようである。人間は何か変わった生じたときに,その原因や理由がわかっているときは,ある程度安心するし,その対処の方法についても考えられる。このために,親や教師がその原因を知ろうと焦ると,短絡的な不安に支配され,いわゆる「悪者探し」をすることになる。「子どもが怠けているだけだ」,「父親が弱い」,「母親の過保護」,「学校教育が画一的すぎる」などなど,どれも一理あるのだが,それだけを「原因」と決めつけてしまっても,次にどうしていいのかわからない。結局,これらの「悪者探し」は,親や教師が「自分は悪くない」と考えるための免罪符として使われるだけになってしまう。
 そのように短絡的に考えるのではなく,不登校という現象をじっくりと受けとめて,過去にその原因を探るような,このことによって未来にどのようなことが起ころうとしているのか,これを契機にどのような可能性が開かれるのだろうか,と考える態度もある。本書に示される例を見てもわかるとおり,これはなかなか有効な考えである。不登校の子どもが,単に登校するようになったというのみではなく,前よりは成長を遂げ,その家族や教師も,前よりは成長したと感じる。
 こんな例に接すると,何か「悪い」ことが原因で不登校になったのではなく,何か「よりよい」ものを探し求めようとして不登校になったとも考えられる。
 と言っても単純に喜んでばかりもおられない。ものごとはそれほど明確に分けられぬものではなく,未来を考えようとすると,どうしても過去のことを考えざるを得ないし,善し悪しというのも簡単に分けられるものではない。従って,実際に一人の不登校の子どもに会うと,その度にその子の現状に合わせて,いろいろと考えなくてはならない。せっかちに理論に当てはめようとすると失敗してしまう。
 現在のように不登校という言葉が日本中に知れ渡ると,それほどの必然性がなくても,ちょっと休んでみよう,という程度の子どももいる。そのような子は,少しのきっかけや工夫によって登校する。こんな場合は,それ相応の対応をして早く登校を促す必要がある。ただ,このような例に一度成功すると,自分のそのときにとった方法や工夫を金科玉条と考えて,誰に対しても適用しようとする人があるが,これは無益どころか有害なことさえある。
 不登校はこのようにその心理面に注目すると,極めて多様になってきたので,最初のときの「見たて」が大切である。じっくりと取り組むべきか,短期に解決してしまうのか,期間はどのくらいか,本人およびその家族の誰に焦点を当てるべきか,などについて判断を下すことが望まれる。長びく例の場合など,そのことを専門家がはっきりと言っておくと,本人を取り巻く人たちの間のイライラによって互いに悪者探しをするのを,相当に防ぐことができる。
 不登校の子どもとじっくりと取り組む,と言っても相当な期間を要することがある。「さなぎ」になる,などという表現を私はしているが,自分の殻のなかに閉じこもり,外から見る限り何もしていないように見える。内では大変な変化が生じているのだが,本人にとってもそれはわからないことが多い。こうして長い期間を経て,「さなぎ」からやっとでてきたとき,周囲の者が望みを棄て去ってしまっていたり,低い評価で固定させたりしていると,せっかく元気になっても能力を発揮できないという結果になる。これが一番残念である。われわれ専門家は,周囲の人たちを納得させながら,長い間,共に待つ力が必要である。幸い,文部省も義務教育に関して極めて柔軟な態度を打ち出してきているので,この点でも相当に安心して,待つことができるようになったのは嬉しいことである。
……

河合隼雄

もどる