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「監訳者のことば」

 本書は,Warburton教授編著“Pleasure and Quality of Life”の全訳である。
 Warburton教授は,スモーキング(喫煙)が精神機能に及ぼす効果に関する研究の第一人者である。教授の著作のうちの一冊は,すでに1996年,『快楽の科学』として,(財)たばこ総合研究センターの内部資料として翻訳され,研究者の活用に供されている。本書は,その続編ともいえるもので,25章から成り,快楽のさまざまな側面について学際的な視点から取り上げ検討している。
 よく「快楽」に対する態度は,文化を反映しているといわれる。どちらかといえば,禁欲的なキリスト教社会に比べ,アジアにおける「快楽」の位置付けは異なっている。たとえば,中国ではこの世を楽しいところと考え,五官の快楽を正しいものと肯定的に捉えている。美しいものを見ること,美味しいものを食べること,それを生きている人間の喜びとするのである。それに対して,仏教文化圏では,煩悩として否定したり,禁欲を推奨したりする。そのため,快楽は長い間,人間の基本的な欲求でありながら,暗闇の世界に閉じこめられてきた。したがって,人間誕生以来の重要な課題でありながら,本格的な研究の歴史は遅く短い。とりわけわが国では,研究は量的にも質的にも貧弱である。本書はこのような研究の停頓状況を切り開くのに寄与するものと期待される。読者の積極的な活用をお願いしたい。
 本書では,快楽の問題が多角的に扱われている。
 まず,快楽の機能や役割について,快楽は仕事に対する不満やストレスの重要な緩衝要因であること,コーピング方略であり対処能力を高めるものであること,不安や緊張を軽減して生活の質を高めるのに寄与していることが,さまざまな資料を基に議論される。ついで,情報処理や課題の達成,創造性などとの肯定的な関連性が明らかにされている。ここで注目されるのはブリスポイントの概念である。われわれが感覚刺激(たばこや酒など)を選択するときの,第一の動機づけは感覚的な快楽である。この快楽が最大になる水準をブリスポイントという。これが,嗜好品への依存とどのように関連するかの推論は興味深い。
 力点が置かれているのは,極めて個人的な人間の快楽を,健康増進とか,病気の予防という否みがたいスローガンのもと,国家が政策として規制する問題についてである。ここで一貫している信念は,個人が判断して決定し,責任は個人が背負うというものである。酒も飲まず,たばこも嗜まず,脂肪も摂らずという生活を選ぶのも,その逆を選択するのも個人の判断である。人生の楽しみやどのように生きるかは国家に規制されるものではないという視点が,それである。いくら健康であっても,生活の豊かさや幸福感がなければ,それは人生とは呼べないであろう。ただし,個人に豊かな教養があり,快楽の適切な利用を心得ていることが前提ではあるが。
 本書の翻訳は,(財)たばこ総合研究センターの発案で開始され,同所のスタッフと早稲田大学との共同作業として行なわれた。このような機会を与えられたことに感謝するとともに,実際に作業にあたられた分担者にお礼申し上げる。

監訳者 上里一郎

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