「はしがき」より

 心理療法に対する関心が,最近とみに高まってきている。臨床心理学を専攻する大学院を目指す人の急増の事実も,それを反映している。現代の社会の状況から「心のケア」に関心を持つ人が多くなったためもあるだろう。日本人には敗戦時の無一物の時代から,ひたすら努力を重ねて経済的繁栄を得たが,それだけでは幸福ではなく,それに見合う心の豊かさを必要とすることに気づいたのである。
 このあたりこのことは,本文にも書いたとおり,C・G・ユングが実に早くから指摘していたことである。彼はヨーロッパの物質的な繁栄に対して一九二○年頃に既に警告を発している。彼はヨーロッパ人に対して「東洋の知恵」の深さを説いている。ところが,皮肉なことに日本の現状は,一九二○年代のヨーロッパの比ではない物の豊かさに心が潰されそうになっている。ユングの心理学が日本人に対して参考になるのも当然である。
 ユング心理学は既に広く日本に受けいれられ,初歩的な解説はあまりいらないだろう。本書はより専門的で,心理療法との関連においてユング派の新しい考えを示した論文集で,いずれも雑誌の『精神療法』に掲載されたものである。読者は現在の日本のユング派の分析家がどのような問題意識をもって,臨床の実際に従事しているかを知ることができるであろう。これらは心理療法についての専門的な論文集であるが,それをこえて,現代の社会的文化的な状況に対する論議につながるところのある点が,ユング派の特徴である。
 ユング派はクライン派,トランスパーソナル心理学などと接近するところがあり,それらに対する論考が本書に収められている。世界の趨勢は,以前のように各学派が強く自分の派の正当性を言いたてるよりは,互いに対話し,理解を深め,心理療法のレベルを高めようと努力する傾向にある。そもそも,本書も,ユング派の考えを主張するというよりも自分たちの考えを示すことによって,他の学派の人たちとの相互理解を深め,日本の,あるいは,世界の心理療法の発展のために少しでも寄与できれば,という態度によって書かれている。そんなわけで,ユング派にとどまらず,ひろく心理療法に関心のある方が本書を読んで下さると幸いである。そこから生じるあらたな論議によって,心理療法が発展してゆくことを期待している。
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編者 河合隼雄