「翻訳者解説――あとがきにかえて――」より

 本書の冒頭では,ADHDの子どもを持つ家族が周囲のさまざまな無理解や対応の混乱の末,著者のもとを訪れる場面が手紙などを通じて記されていますが,本邦でも同様なことが日々繰り返されているようです。
 訳者の所属する東京都立梅ヶ丘病院は,日本では数少ない児童青年精神科の専門病院のひとつで,年間千名を超える十八歳以下の新規患者のうち,近年では二百名を超えるADHDの初診患者が来院しています。ADHDの子どもたちには,児童精神科を専門とする医師の診察や,臨床心理士による心理検査,脳波検査による診断・アセスメント,対応法のアドバイス,薬物療法に加え,小学生年齢の外来患者を対象とした医師,臨床心理士,保育士,精神科ソーシャルワーカーの治療チームで行うグループ治療を週一回行っています。
 また,乱暴などの衝動性の強い子どもや,多動および集中困難が強く学校不適応が著しい子どもでは,入院加療も行っています。小学生・幼稚園年齢を対象とした病棟では,半分が発達障害のある子どもを対象とした部分になっていますが,もう半分はADHDなどの子どもたちの病棟としています。病棟には看護婦,保育士が三交代で勤務し,医師や臨床心理士,ソーシャルワーカー,作業療法士と医療チームを組んで,子どもたちの生活能力の向上,症状の改善などを目標に日課やカウンセリング,薬物療法,家族へのアドバイスなどを行っています。院内学級も併設されており,教育を受けながら治療を受けることもできます。
 本書の,「症状の特徴」(第2部),「原因」(第3部),「診断・アセスメント」(第4部)は,そのまま日本でみられるADHDの子どもたちにあてはまります。日本ではこのような診断,検査が可能な施設が少しずつ増えてきているところで,児童精神科,小児科,教育関係の専門家の中でもADHDがようやく広く知られるようになってきたところです。
 もし,お子さんがADHDではないかと疑われる場合には,地域の保健所や児童相談所へ相談し専門の児童精神科や小児科を紹介してもらうと良いと思います。小児病院(子ども病院)や大学病院の小児科・精神科にも,子どもの発達に詳しい医師が勤務している場合が多いので,直接問い合わせてみるのも良いでしょう。
 また,ADHDの子どもたちの予後は,日本ではADHDの理解がすすみ診断が早めに確定するようになったのはここ数年のことなので,多くのADHDと診断がついた子どもたちが成人するに至っていません。第6部の成人期についての記述は,今後彼らの成長を見守っていく上で大変参考になると考えられます。訳者らのみた子どもたちでは,多動が小学校高学年になるにしたがい減じていく例が多くみられますが,一部の症例で自己評価の低下や他の子どもとの関係がうまくとれず学校不適応をきたす子どももいました。また,衝動性が強く行為の障害がみられる子どもも散見されます。多くの例では気の散りやすさは残るものの,適応は良いようです。適応が良い症例は通院を終了してしまうため,ADHDの子どもの全体でさまざまな不適応を起こす例との比率を調べる予後調査は現時点では困難です。
 本書にもあるように,日本でも薬物療法は,ADHDの子どもたちへの治療の中で大きな比重を持っています。
 薬物療法は,六〜十二歳の子どもで,てんかん発作や発作性の脳波異常がなく,多動や集中困難,衝動性の強い症例では,家族本人へ説明し,同意を得た上でリタリンを用いる場合があります。しかし,日本ではリタリンはうつ病とナルコレプシー(日中に睡眠発作のみられる病気)にのみ健康保険が適応されるため,ADHDの子どもに対するリタリンの処方は医師の診察・判断,家族と本人への説明と同意に基づいて慎重に投与されています。効果の有無が比較的短期で現れるため,効果が認められない子どもに漫然と長期的に投与されることはありません。リタリンの有効例でも,中枢刺激作用や習慣性,依存性の問題から思春期を迎える中学生年齢には断薬すべきでしょう。
 ADHDに対し健康保険が適応となっている薬物は日本ではまだないので,他の薬物も症状に応じて説明と同意にもとづいて投与されています。
 本文に見られる薬物の中では,カタプレスの日本での使用例は少ないと考えられます。また,イミプラミンも一部症例で用いられてはいますが,著効例は少ないようです。他に中枢刺激薬のベタナミンも少数例で用いられることがあります。てんかんや発作性の脳波異常のある症例では,抗けいれん薬・抗躁病薬のカルバマゼピン(テグレトール)が用いられることが多く,乱暴などの衝動性の強い症例では抗精神病薬のハロペリドールが追加されることも多いようです。
 翻訳する段階で,一番変更を行ったところが薬物療法の項目です。できるだけ日本で処方可能な薬物について翻訳を行い,剤型(薬の形状)についても日本の剤型にあわせました。原文では本書の173ページの表5に見られる薬物についてすべて第14章で解説を行っていますが,日本で処方ができないデキサアンフェタミンやオウロリックスについての解説は省略しました。
 
 本書を訳していて,ADHDの子どもたちの臨床,教育についてオーストラリアはずいぶん恵まれているという印象を受けました。
 特に一番うらやましく思ったのは,「対応法,治療法」(第5部)を訳したときです。オーストラリアでは地域,医療関係,教育関係の中でのADHDに対する理解と対応が非常にすすんでいます。原文では地域の支援組織や専門的教育のできる学校,教師などの記述が随所に見られましたが,文意を変えないよう努力しながら日本の実情に合った形で割愛したり,意訳を行ったところが何箇所もあることをお断りしておきます。ようやく,日本ではADHDの子どもや家族の集まりがいくつか誕生しはじめたところですから。
 学校での対応法や,教育法も本文に述べられているように行うことが望ましいと考えられますが,日本では治療・教育チームを組んでADHDの子どもに対応することはなかなか難しく,本文に書かれているような対応法を所属する学校などへ少しずつ理解していってもらうところから始めなければならない場合が多いのです。家庭での対応法は本文がとても参考になるでしょう。
 本書『ADHDの子どもたち』のような本が日本でも広がって,多くの家族と子どもが適正な治療と教育を受けられるようになることを願ってやみません。
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訳者 中根 晃・山田佐登留