「訳者あとがき」より

 戦略的セラピーについて
 戦略的家族療法は,ミルトン・エリクソン(Milton Erickson)の戦略的療法から派生したものであり(Erickson, M.の患者へのアプローチを見たHa1ey, J.がそれを“戦略的――strategic”と呼んだのが最初である)家族メンバー同士のまたはセラピストとクライエント間の勢力関係に焦点を当てる方向で開発された。この療法の特徴は,1)クライエントの持ち込んだ問題を解決するために,セラピストが明確な目標をたてる(戦略),2)変化をもたらすために,“勢力(poWer)”をテコとして用いる(戦術)ごとにある。
 勢力の概念は,日常生活の中で話題になることさえ危険視されてきたので,セラピーのように寛容さを旨とする分野においては,勢力の操作を考えることは不可能であった。だが人間関係において勢力が重要要素であることを考える時,これを避けて通ることはできない。勢力の問題がこうも忌嫌されるのは,このことばが人問の自己中心性や攻撃性の行使を連想させるためだろう。しかし,勢力を敵意や攻撃性だけでなく,善意や寛容性の範疇で考えれば,勢力はその寛容な目標を成就するための手段となるに違いない。
 たとえば,子どもの症状や問題行動は親が自分たちの問題から逃避するのを助ける。母親は子どもの問題に集中することで,夫との関係や自分のキャリア向上を考えることから目をそらすことができるのだ。あるいは妻から拒否されていると感じていた夫が,子どもの問題に関しては,自分が必要とされていると感じることもできるだろう。この場合,問題行動を起こした子どもは,そのことで両親を救助していることになり,この意味でパワフルであり,家族内階層上,親の上位に位置する。親を救助するために展開された子どもの問題行動は,しかし,親の介入によって継続し,エスカレートし,遂には親にとってもお手あげとなる。第三者としてのセラピストの登場となるが,この時の家族の混乱をどう診たてるかが重要である。伝統的診断類型としての抑うつ症や強迫症を,人とかわされた契約と見れば,家族関係に順応的な側面が浮かび上がるが,個体内病理の発現と見れば,医学的治療の対象となる。このようにレッテルは問題を創造し,解決に影響を与える。従って,レッテルは問題が解決しやすい方向でつけられるべきである。戦略的アプローチは持ち込まれた主訴を解決しやすいように規定するものである。
 戦略的アプローチの展開
 戦略的アプローチは,シスミテック家族療法の発展の最初に位置づげられるものである。先述のようにアメリカでのミルトン・エリクソンやヘイリーの戦略への注目を元に,ミラノチームによって,それまでのセラピストによってとられていた変化制御のための逆説的介入が,すべての行動にまで拡大された。(『逆説と対抗逆説』“Paradox and CounterParadox”1978)。以後問題を維持するすべての行動は肯定的に再規定されたが,ミラノチームは,家族メンバーをつなぐダイナミックなコミュニケーションのパターンを再規定するために必要な情報を集めるため,円環的質問法を考案した。この技法は,ベイトソン(Bateson, G.)による二重記述(ある見方に重ねられた別の見方)を操作化したものである。このようなミラノチームによる戦略的アプローチの展開期において,面接は,戦略的目的に対するベイトソン的手段(認知的手段)とみなされた。
 1985年になってミラノチームは,円環的質問のプロセスによって得られた情報は,それだけで家族の変化に貢献し得ると思い始め,介入よりも新しい情報を得ることに焦点を置いた,よりベイトソン的な情報セラピー,つまり面接を手段ではなく目的とするセラピーに移行したのであった。この問,マダネスは初期の戦略への関心を踏襲するとともに彼女流の戦略的アプローチを確立していった。1970年代にダートマス大学で訳者はヘイリーのワークショップに出席したことがあった。そのときのヘイリーは自分の役割を家族に対する“教師”と位置づけており,家族の機能不全,特にコミュニケーションの連鎖を発見し,是正する先達者として教育的アプローチをすることに意味を見いだしていた。ヘイリー自身はシャイと見えるほど身をひいており,表情もあまりなく,ボソボソという感じてものを言っていた。そのときの彼を見ながら“教師”という彼の自己規定に妙に納得したのを覚えている。
 1982年に日本で会ったヘイリーは別人であった。彼はマダネスと出会い,再婚していたのである。以上のような理由で,私はマダネスの著書を読む以前に,ヘイリーを変えた女性として彼女に関心を持っていた。その後,軽妙でユーモアにあふれたマダネスの臨床的態度とスーパービジョンのやり方について知ることができたが,ヘイリーとマダネスを治療上の双生児としてしか認識せず,そのうえマダネスの介入に見られる楽天性,単純さをあまり評価しなかった。このたび,あらためてマダネスの三部作(“Strategic Fami1y Therapy, 1981”“Behind the One-Way Mirror, 1984”“Sex, Love and Violence,1981”)を読んでバージニア・サティア(Vrginia Satir)亡き後,女性家族臨床家の第一人者と見なされている彼女の全貌を知ることができたのであった。
 マダネス流戦略的アプローチ
 マダネスにとって重要な視点は,1)(先達の貢献を受け継いで)階層性(家族内世代問の勢力分布)である。子どもが症候や,問題行動を示すことで,親を圧倒し,そのことで家族内の力のあり方(階層)が逆転し,家という建築物の構造がゆらぐというのが彼女の診立てである。2)さらにマダネスは,ある症候,問題行動は他の症候,問題行動の比喩,または隠喩であるとする“比喩的・隠喩的コミュニケーション”を強調した。人問の行動はすべていくつかのレベルにおいて比喩もしくは隠喩的に見ることができる。換言すれば人は隠喩的コミュニケーションを行うと言うのである。(メッセージのレベル性についてはすでにベイトソンが,“報告”と“指令”として論じている)。この点について彼女は“Strategic Family Therapy, 1981”の中で以下のように説明している。
 『(1)1つの症状は内的状態についての報告であると同時に他の内的状態の比喩である場合。たとえば子どもの頭痛が異なった痛みを表している場合など。(2)1つの症状が内的状況についての報告であると同時に,他の人の症状や内的状況についての比喩か隠喩である場合。たとえば登校拒否の子どもが自分の恐怖と同時に母親の恐怖を表している場合。子どもの恐怖は母親の恐怖についての比喩(恐怖が同じであるということ)と同時に隠喩(子どもの恐怖は母親の恐怖の象徴もしくは表象である場合)。(3)家族メンバーの2人の問に起こる相互作用が比喩であり隠喩である場合。この場合は他の2人組の相互作用の代替となっている。たとえば帰宅した夫が何かに気を取られおびえているような場合,妻はそれを慰めようとする。今度は子どもが繰り返し痛みを訴えた場合,帰宅した父親はかつて妻にされたと同じように子どもを慰めようとする。息子に救助的なやり方で対処しているとき,父親は妻との関係においてのように無力に振舞わなくても良い。つまり父と息子の相互作用が夫と妻の相互作用に取って代わられたとここでは言えるだろう。(4)1人の家族メンバーの症状をめぐる相互作用は他の問題をめぐる家族の相互作用の比喩でありそれに取って代わるものである。たとえば父母兄弟たちが子どもの問題に救助的に関わるだろうが,そのやり方は子どもが問題を起こす直前の父親の問題への関わり方への比喩である。(5)家族の相互作用が誰に焦点づけられるかには円環的な様相がある。時には子ども,時には両親,時には夫婦の問題に焦点が当てられるが,相互作用のパターンには不毛感や不適切感を示していることにおいて,いつも同じである』
 彼女の説明によれば,2つの異なった行動が特定の場合に類似性のある場合は,1つの行動は他の行動についての比瞼であり,1つの行動が他の行動の象徴として用いられる場合は,隠喩なのである。本書の中では,子どもの示すすべての症候,問題行動はすべて大人たちの問題の隠喩であるとの立場がとられており,すべての事例は隠喩,階層,勢力というキーワードで解かれている。経験を積んだセラピストとしてマダネスはマジックミラーの陰に陣どり,面接を実際に行うセラピストの現場スーパービジョンを行う。(「まえがき」参考。)従って本書をスーパービジョンの事例集と見ることもできるだろう。3)マダネスは家族療法を一つのドラマとして,新たに書き替えられる家族ドラマの上演プロセスとして見ている。スーパーバイザーとしての自分を演出家,新しい物語の共同展開者となるセラピストと家族メンバーを登場人物,登場人物問の行為(言語,非言語),相互行為を演技,再構成(reframing)を技法ととらえる。そうして,ドラマの成功は参加者全体が楽しみ,結果的に啓発されることにあるとする。この時の観客は各自の中にある家族愛への希望であり,演出家としてのマダネスはこの希望を先取りし,確信にまで強化し,ドラマを貫く導きの糸として情景に涙と笑いを与える。
 演出(スーパービジョン)のポイント
 マダネスの演出のポイントは,第一に,親と子の家族内階層上の逆転を是正することにある。ある場合は,子どもを直接的に上位に立たせること,つまり,症候や問題行動の持つパワーで上位に立つのではなく,直接に愛や保護を親に与えることで,他の場合には高次の権威(法的拘束力や契約など)を用いることで。いずれの場合にも間接的にまたは暴力として表明された家族メンバー間の愛を,直接的な愛情表現に転換させることを目指している。第二のポイントは,家族の生活圏内のリソースとして家族生活に影響を与えている司法,医療,教育,福祉諸制度を社会統制機関とみて,それらを家族関係の障害の発生と回復を左右するコンテクストそれ故にセラピストの介入を必要とする対象としてとらえる点にある。このような社会的ネットワークヘの配慮なしに家族関係の変化を望むべくもないことは衆知のことであるが,これまでファミリーセラピスト(特に米国の心理系の)によって特に強調されては来なかった。マダネスは,クライエントに影響力のある専門家を含める援助的ネットワーク作りをすすめる。
 たとえば少年が入院したときセラピストにとっての社会的ユニットは,本人とその家族のみならず,薬物投与,入院,退院に力をもつ専門家たちをも含むものである。同様に少年が保護監督下にあるときセラピストは子どもがレッテルづけられたり,そう呼ばれたりするやり方を決めることのできる,教師や学校関係者に影響を与えることを期待される。マダネスの臨床活動の本拠地がフィラデルフィア市であり,アメリカの他の都市と同様社会的不正義を露呈させていること,最近のアメリカ社会の“PC”(po1itica1 correctness)に対する敏感さへの影響を考慮に入れても,彼女の社会的コンテクストヘの感心には並々ならないものがあり,この関心は“Sex, Love and Violence, 1981”,『変化への戦略――暴力から愛へ』1996)によって一層鮮明に示されている。
 家族愛への確信
 訳者はこれまで家族内のすべての困難と問題を暴力と捉えてきた。援助を必要とする家族の体験を「暴力による喪失」と捉えるのは,援助の道筋を明らかにする上で有効である。なぜならそこでは加害者・被害者の二者択一がリアリティを失うからである。暴力は人問の相互行為の結果生じるゆえに,誰もが加害者であると同時に被害者である側面をもっている。巻き込まれている全員が何かを喪失し,その結果,それぞれが悲哀を体験することになるのである。
 従って援助はこの悲哀体験をセラピストを含めた家族問の言語化による相互行為によって経験化することにある。
 現代日本の家族問題が暴力性によって色どられている今日,マダネスの癒しの原動力としての家族愛への確信,争いや葛藤の隠喩を愛の隠喩に変えるという戦略への信頼,戦略を実践するための確かな介入戦術,最後にこれらを統合するユーモア,暖かさ,包容力はわれわれ家族臨床家をエソパワーしてくれると確信するものである。本書と同時に“Sex,Love,andVio1ence,1981.”(日本版斎藤学監訳『変化への戦略――暴力から愛へ』誠信書房,1996)を読むことをお奨めする。

 佐藤悦子