「日本語版への序」より

 この本の英語の表題である メEscape from Babelモ は,旧約聖書の創世記の第11章に収められているバベルの塔の物語を引用しています。聖書によれば,それは,「全世界がひとつの言語で,同じ言葉を使っていた」時代の話です。聖書のこの興味深い物語は,天上に達する塔を建設するためにレンガやモルタルを造り始めた時代の人々がどうであったのかを詳しく説明してくれています。この塔ができあがっていくのを見た時に,神は申されました。『……さて,下り行きて,あの地の彼らの言葉を混乱させよう,さすれば,互いに語ろうておることが分からぬようになるであろう』。そこで,神はその人々をあまねく追い散らされたのです。
 
 「見るがよい,あの者たちはひとつの民であり,ひとつの言語を使っておる。あやつらが自分たちの意志でものごとをやり始めたばかりのところじゃぞ。あやつらがやろうと言い出したことを,自ら止めていく気は全くないであろう。さて,下り行きて,あの地で,あやつらの言語を混乱させてやることにしよう,さすれば,互いに語ろうておることが分からぬようになるであろう」。しかして,神は,その民を,そこから大地のおもてにあまねく追い散らされ,その民は,街の建設を諦めたのです。それゆえに,その地はバベルと呼ばれてきたのでした。なぜなら,そこで,神は大地のすべての言語を混乱させたからです。(創世記Genesis 11: 6-9, New Revised Standard Version [1989])
 
 この本が書かれた時期は,治療的変化研究所(ISTC)のチームが,今日のセラピー界の現状について,バベルの塔の物語よりも,もっと適切に語れるものをと考えていたときなのです。この本の最初の章に書いていますように,1世紀ほど前に,このセラピーの分野がつましやかに創始されて以来,治療的アプローチの数は劇的に増えてきています。この聖書に匹敵するほどの混乱を伴って,さまざまなモデルや方法論がセラピーの本質とそのプロセスを語るためにそれぞれに独自の特有の言語を携えてきています。その結果は,メンタルヘルス推進事業における,臨床家の協力関係ではなくて,学問や理論系列による隔たりであります。無数の治療学派の間に存在する隔たりを考えると,もし,共通言語が保たれていたならどれほどの進歩があったのかと今はだだ夢物語を描くことができるだけです。聖書の物語のように,同じ言い方で言うなら,「あやつらがやろうと言い出したことを,自ら止めていく気は全くないであろう」なのです。言葉を変えていうなら,実験的な裏付けなしの誇張された主張があまりにも多くなされており,装飾的で,異国風な響きを持ったテクニックが毎シーズン行き交い,声高に公表される内輪もめがセラピーに悪評を与え,セラピーの真摯で,心から役に立つ恩典が安売りされてきているのです。
 この本の目的とするところは,それぞれの治療学派の間に橋を架けることなのです。バラバラではなく統一され,争いではなく協力を推めていくような,臨床実践のための言語を開発していくことなのです。こうした言語を開発するにあたって,私たちは,聖書からもうひとつの物語,聖霊降臨祭(Pentecost)からインスピレーションを得て,まず,各治療モデルの相違点ではなく,類似点に注目したのです。ちょうど,キリスト教では,キリスト受難に続く聖霊が地球に降りきたる時期でした。聖典によれば以下のように記されています。
 
 彼らのすべてが聖霊に満たされ,ちがった言葉を話し始めたのです……そして,その物音に大勢の人々が集まり,驚き怪しみました。それというのも,それぞれが,それぞれの土地の言葉で話しているのを,お互いが聞いていたからなのです。
 
 私たちは,統一言語の各要素に注目することで,セラピーにおいて誰もが同じ言語を話していた,バベル以前の日々へ回帰するという幻影を抱いているのではありません。実際に,それがたとえ可能であっても,私たちはそれを願っているわけではありません。むしろ,私たちの関心は,聖典の聖霊降臨祭のように,治療的オリエンテーションが異なるの臨床家たちが,他の治療学派の役に立つ面を自分たちの言語で聞くことができるように援助し,それによって臨床家たちにより普遍的な気風をもたらすことなのです。その結果,もっと効果的に臨床活動を推めることができる理論的,学際的な流れを分かち合えればと願っています。 治療的変化研究所(ISTC)のチームを代表しまして,私は,関西グループのみなさんに対して心からの感謝の意を表します。関西グループのみなさんは,この本が,日本のセラピストの方々に提供する何らかの価値があると信じてくださり,このようなすばらしい翻訳をしてくださいました。特に,監訳にあたられた曽我昌祺先生をはじめとして,内田郁先生,黒丸尊治先生,濱田恭子先生,市橋香代先生,舟木順子先生,沖美代子先生,内田由可里先生,前田泰宏先生に対して,厚くお礼申し上げます。また,私を最初に日本へ呼んでいただいた,白木孝二先生,田中ひな子先生,市橋香代先生に,大変恩義を感じております。その友情は私にとって何にもまして大切なものであり,その汲めども尽きぬ優しさと寛大さに対して,深く感謝しております。

スコット・D・ミラー, Ph.D.