「あとがき」より

 1990年代は「こころの時代」とでも言えるであろう。ちょうどその真ん中の1995年1月の阪神淡路の大震災と3月の地下鉄サリン事件によって「こころのケア」の必要性がようやく世間に認知されはじめた。そして,外傷後ストレス障害(PTSD)という言葉でさえも,新聞やテレビでしばしば目にするようになった。このような大きな出来事とともに,犯罪の低年齢化,不登校の増大,従来大人が当然担うべきとされた責任と義務を回避しようとする若者たちの出現,思春期・青年期から引きこもる人たちの存在などが,われわれ自身に不可避的に「こころ」と向きあわざるをえない状況を生み出している。今この時代に「こころ」にかかわる何かが,従来とはまったく違ったかたちで何か変質しつつあるのではないかと予感される。
 そのような時代にこそ精神病理学は,もっと表に出てきてもよいのではないと思われる。しかし時代の趨勢は,逆の方向に行っている。現代はあくまでも感性,感覚,感情が重視される世の中であり,理詰めの議論は嫌われる傾向にある。だから,時代のキーワードは,子ども,思春期,若者,こころ,癒し(ヒーリング)といったソフトなイメージをともなう言葉となる。そして近年,カウンセリングや臨床心理に代表されるような「こころのケア」に人気が高まっており,また高齢化社会と到来とともに福祉部門への関心も高い。
 そのような傾向のなかで,その硬さと理屈っぽさ,生真面目さのゆえにか,精神病理学が1970〜80年代に持っていた勢いは,90年代に入って急速に失われてしまったかのように思える。実際たとえば,全国の多くの精神医学教室は主任教授の交代の時期にさしかかっているが,ほぼ例外なくその後任は,生物学的精神医学や計量精神医学領域を専門にする人々に占められてきた。もっとも,(精神分析も含めた)精神療法や精神病理学のような領域は,あくまでも精神医学の臨床に根ざしたものであり,治療よりも研究を優先しがちな大学アカデミズムにはあまりそぐわず,むしろその外部において活動が展開されているほうが自然なのであろう。さらに医学部内ではあくまでも自然科学モデルが圧倒的に主流であり(と言うか,それしかないと言っても過言ではない状況において),精神療法や精神病理学は,医学のパラダイムが変わらないかぎり,以前と同様に今後とも医学の周辺領域にとどまり続けるであろう。私には,むしろその方が学問の創発的ポテンシャルを維持するためにも良いのではないかと思っている。
 再三言われることだが,精神症状学の多くは,患者の主観的体験に根ざしており,その症状の吟味にあたっては精神病理学的知識なしには不可能である。その学自体,解剖学における骨学のようにすでに学問的使命を終えたという意見もある。しかし,精神症状や疾病でさえも,大きな時間スケールで変動することが知られており,精神病理学それ自体も時間の関数であって,けっして静態学ではないのである。しかも,ゲーデルの不完全性定理ではないけれども,精神は永遠に汲みつくすことはできないと同時にいくらでも探究可能な対象である,と私は考えている。球体の割面が無限にあるように,精神の切り口も無限にあるであろう。その一つの切り方が,本書の試みである。
……