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「はじめに」より

 私が産後の母親について不思議な感想を抱いたのは,およそ15年前のことです。その母親は,精神科の閉鎖病棟に入院していました。出産した自分の子どもの顔が知らない人の怖い顔とすり替えられていると訴えるのです。彼女はぼんやりして沈んだ表情をしていました。赤ちゃんは自分の子どもと思えないと言い,抱いたりあやしたりしませんでした。
 私はその母親の主治医ではありませんでしたが,なぜ自分で生んだわが子にそんな奇妙な考えを抱くのか,赤ちゃんがかわいくないのだろうか,なんという母親なのだろうと思っていました。その母親を可哀想にも思いましたが,それと同時に憤慨もしていました。私は産後精神病についてあまりにも無知でした。その病態を思いつかなかったというよりは知らなかったのです。私が医師になってすでに数年経っていたにもかかわらずです。私は最初の4年間は小児科医として勤務していました。この母親に出会ったのは,小児精神医学を志して小児科から精神科に移って間もない頃でした。出産後の母親と赤ちゃんを前にしても,子どもの側ばかりに注意を向けていたのだと思います。
 もう一つ出産後の母親について,私が今でも思い出すエピソードがあります。その母親はダウン症候群の障害を持った赤ちゃんを出産しました。その数日後,母親が泣いており母子ともに問題をかかえているということで,産科病棟に呼ばれました。母親のかたわらで助産婦は,「今のお母さんは甘えていますね。障害のある子どもの母親なのだから,めそめそ泣かずにもっとしっかりしなければ」と叱咤激励をしていました。私も,障害児を持った母親の,いわゆるショック,怒り,拒絶そして受容という心理的過程の最初の段階だろうと思い,それにしても今からこんなことでは将来も大変かもしれないと危惧していました。その母親は間もなく退院して,出産後1カ月過ぎに赤ちゃんを抱いて私の外来に受診しました。その時には,すでにダウン症の子どもの早期療育の機関も見つけており,元気で前向きな姿勢が感じられました。出産後数日の気分を振り返ってもらうと,あの時は子どもの障害のことで悲観して泣いていたのではなく,なぜか泣いてしまったということでした。その後は気分も良く,子どもの療育について考えていたと話されました。この母親が出産後に経験した涙は,甘えからでもショックからでもなく,まさにマタニティーブルーズの涙だったのです。つまり多くの母親が経験する,出産後早い時期にみられる一過性の気分の障害だったのです。
 赤ちゃんの誕生は,母親にとっても家族にとってもおめでたいこととされています。しかし,日本では「産後の肥立ちが悪い」という言葉があるように,周産期は,母親の気分の障害が生じやすい時期なのです。この中には,マタニティブルーズ,産後うつ病や産後精神病の母親も含まれているのですが,これらの病態については,家族や母親自身だけではなく,医療スタッフにとってもあいまいです。ここで述べました私の経験からも,私たちにとって学ぶことは多いのです。
 英国は,妊娠・出産に関連する精神の障害や,またそれに引き続いておこる母子関係の障害や子どもの発達の研究が進んでいます。私は7年余り英国に滞在し,これらについて勉強と仕事をする機会がありました。学ぶところは多く,また日本の事情にあわせて考えていくべきこともあります。日々の臨床で妊産婦に接する助産婦や保健婦,医師などの医療スタッフは,周産期の母子の精神医学的な問題についての基礎知識や対応の方法を知っておくべきだと思います。そのような立場の医療スタッフや,さらには医学や看護学を学んでいる学生の皆さんのために,私が得た知識や経験を,本書を通してお伝えしたいと思います。特に本書でご紹介する症例のほとんどは自験例であり,例示することにご本人やご家族から了解を得ており,プライバシーの保護には十分に留意しています。さらに,出産後の精神障害を体験した何人かのお母様方には,その時を振り返った手紙を寄せてもらい,本書にご紹介することに,快く承諾していただきました。これらのことについて筆者として感謝します。 本書は,妊娠・出産に関連する精神医学の知識を提供し,私が得た臨床の経験や研究の成果を呈示しているだけではありません。ここに述べましたように多くのお母様方の体験や率直なお気持ち,また妊産婦をとりまく医療スタッフの方々の現場の声を載せたものです。 本書が,皆様の仕事に何らかの形でお役に立つことを願っております。
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