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「あとがき」より

 周産期精神医学という,私にとっては新しい領域の仕事に取り組み,そして本書ができるまでには,幸運にもさまざまな偶然の機会や人々との実り多い出会いの連続でした。
 1988年,児童精神医学一般について短期間留学していた私が,ロンドン大学精神医学研究所で午後のお茶を飲んでいる時のことです。やさしい眼差しの研究者らしき人が近づいて,私に日本人かと尋ねました。そうだと答えると,いかにも嬉しそうな顔をして自分の著書が日本語に訳されているから見せてあげると,自分の研究室に私を案内して下さいました。その方がその後何年も,そして私が1997年に帰国してからも現在までも,周産期精神医学領域の私の仕事の師であるKumar先生でした。彼の部屋には『母性と精神疾患』(Motherhood and Mental Illness のタイトルでBrockington, I.F.とKumar, R. の共著)の本がありました。この本の日本語の訳者の一人である国立精神神経センターの北村俊則先生にも,その後今日まで機会があるごとに研究の助言をいただき,その厳格かつ誠実な研究姿勢にはいつも探求意欲を刺激されています。実は当時私はその本の存在も知らず,周産期精神医学のこともわからなかったのですが,私がもと小児科医でいま児童精神医学の勉強中であることを話すと,Kumar先生が後日,精神科母子ユニットを自ら案内して下さることになりました。
 母子ユニットでは沈んだ表情や険しい目つきの母親が入院していましたが,赤ちゃんは肌や髪の色も違うのにみんなそれぞれにかわいくて,思わずひとりひとりのぞいていきました。それは私にとっては英語を必要としない,ほっと一息できる赤ちゃんとの非言語的コミュニケーションでした。赤ちゃんに触れながら,私自身,一瞬何年も前の小児科の研修医時代に戻ったような気がして,爽やかな興奮を覚えました。これがその後の私の研究生活を支えてくれたエネルギーの源のような気がしています。
 Kumar先生との偶然の出会いからまもなく,私は周産期精神医学の集会であるMarc至w会にKumar先生についていくことになりました。そこで,一人で発表のためにはるばる日本から参加していた,三重大学精神科の岡野禎治先生と顔を合わせました。それ以来,Kumar先生の研究フロアーの一部屋で二人で生徒のように机を並べた時期もあり,その後の交流を通じて岡野先生から臨床研究においてのねばり強さをおそわりました。本書でも北村俊則先生と岡野禎治先生の研究は,たびたび登場します。
 このような偶然の出会いの後,1988年にいったん帰国して,私は1990年にふたたび渡英し,Kumar 先生のところで以後7年余を過ごす結果になりました。この間遠く日本から常に私をサポートして下さったのが,私が現在勤務する九州大学医学部付属病院精神科の田代信維教授と,産婦人科の中野仁雄教授です。私が帰国して早速1989年には両科合同で,妊産婦の精神障害についての勉強の会を開くという画期的な試みを催していただきました。この試みが九州大学医学部付属病院の周産期母子センターの妊産婦さんと精神科医の出会いの契機となったのです。そして田代教授には,翌年再び渡英しKumar教授のもとで周産期精神医学の臨床研究を本格的に始める機会まで与えていただきました。またその後も田代教授は,2年の予定が7年間にもわたった私の遅々とした研究生活を見守って下さいました。そして帰国後は再び臨床と研究を積むことのできる大学の場に迎えていただきました。本書で紹介した多数の日本人の症例は田代教授のサポートなしには経験できませんでした。中野教授は,私が精神科医として周産期精神医学の意義を学んでいるとき,すでに産科領域から妊産婦のメンタルヘルスに注目されていた方です。1989年の勉強会以降,今年まで10年にわたる厚生省の母子のメンタルヘルスについての班研究の推進者となられています。
 さてこの本の執筆の直接のきっかけとなったのはまだ在英中のある日の午後の会話でした。以前同じ留学の身でパブ通いの仲間でもあった,現川崎医科大学精神科教授の青木省三先生がロンドンを再訪しておられたときのことです。私に「一体吉田先生は何年この研究を続けとるんかね」と岡山弁で尋ね,7年にもなると言いますと「それだけ気の長いことをしている人だからユニークな本が書けるね」とさりげなく執筆を勧められたのです。その時ののんびりした雰囲気とは異なって,青木先生が帰国後仲立ちとなって出版の企画が具体化するまでは,あっという間の早業でした。それから,4年も経ちました。日本での新しい研究も加えながら本書をまとめていく中でもいろいろな方と出会い新たな刺激を得ました。本書の構成について迷っている時期に,大正大学カウンセリング研究所の村瀬嘉代子先生が声をかけてくださり,周産期精神医学について話す機会をいただきました。その講演に先生は「生命が世界に出会う時」という素敵なタイトルをつけて下さいました。その時は素敵な本ができそうな気がして励まされました。完成した今ではまだまだそのタイトルには及ばないと感じています。本書はまず精神障害に関しての内容が主となりましたが,妊娠・出産をめぐっては,その女性を取り巻くさまざまな深くて幅広い出来事や体験が繰り広げられています。本書をまとめる中でもたくさんのお母様方,そして赤ちゃんや家族と出会ってきました。それらには母親から家族のメンタルヘルスと広がる豊かな内容が含まれています。最後にそうしたお母様方やご家族の協力への感謝を込めつつ,それらを反映できる幅広い内容をもった臨床と研究を今後も目指していきたいと思っています。
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2000年夏 吉田敬子

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