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訳者あとがき

 本書は,Patrick McGorryとHenry Jacksonの編著になる“The Recognition and Management of Early Psychosis. A Preventive Approach”Cambridge University Press 1999の邦訳である。邦題はあえて「精神疾患の早期発見・早期治療」とした。しかし原著のタイトルが示すように,本書は紛れもなく精神疾患の“予防”を明確に意識し,それに主眼を置いた著作である。
 Patrick D. McGorry教授は,メルボルン大学精神医学講座の教授であるとともに,約100万人をキャッチメント・エリアとするメルボルン市内の児童・思春期を対象とするEPPICの責任者である。今日世界的に注目されてきている初発精神病の診断・早期介入研究の第一人者であり,粘り強い優れた臨床家である。近年精神分裂病に関しての神経科学的な知見が重ねられ新たなタイプの治療薬も登場してきたとはいえ,分裂病の多くが慢性の経過をたどる疾患である以上は,その慢性化を食い止める努力に一層の関心が向くのは当然であろう。すでに脱施設化をやり遂げた欧米諸国においては,次の関心は精神病の予防や早期介入に広がっている。マクゴーリ教授とその仲間たちは,そのことにいち早くニーズを見出し,困難を承知の上で着実な努力をなさっている。
 本書との出会いは,運命的な偶然である。慶應義塾大学医学部精神神経科の包括的治療研究会(旧・総合社会復帰研究班)が参加している国際共同研究プロジェクトであるOptimal Treatment Project(OTP)を主宰するイアン・ファルーン教授から,今日世界で最も注目すべき臨床精神医学者としてマクゴーリ教授の名を挙げてその仕事に常に注目しているようにとの教唆を受けていたところ,出版社のカタログで本書の書名をみつけたものである。ファルーン教授とマクゴーリ教授が互いの仕事に強い関心と敬意を払っていることは,本書の記述などからも容易にうかがい知ることができる。地道な臨床体験に根ざすマクゴーリ教授らの確信に引き込まれるようにして先を読むうちに,このテーマの重要性に対する予見に促されて本書の翻訳を思い立った次第である。
 その舞台がようやく病院から地域へシフトし始めたわが国の精神医療現場にあっては,本書は10年あるいは20年を先取りした著作であるかもしれない。わが国でもリスペリドンをはじめとする非定型抗精神病薬の使用が広がりはじめ,新たな治療戦略に展望が見え始めた今日,我々の次の関心が予防に向かうに相違ないことは,病に対峙してきた人類の歴史を振り返ることを待たない。精神疾患のはじまりをめぐっては,特にその徴候を中心にこれまで多くの研究者に注目され検討されているが,治療や予防に踏み込んだ研究は未だ極めて乏しい。その意味で訳者らは,原著者の慧眼にこころからの敬意を払うものである。
 ここで訳者らが得たひとつのデータを示すことをお許しいただきたい。「初発分裂病の精神病未治療期間(DUP)について」と題して,第21回日本社会精神医学会(平成13年3月,高知)で発表したものである。それによれば,東京都心の大学病院と都区内の某精神病院外来を生涯初めて受診し精神分裂病と診断された者が,初めて精神病症状を呈してから初診に至るまでの平均期間は17.6カ月であり,およそ1年半であった。対象を15歳から54歳とした場合の平均は,11.1カ月であった。精神病の初期症状があるにもかかわらず,およそ1年の間専門医療機関を受診しないということである。読者は,この数字を長いと感じられるだろうか,短いと感じられるだろうか。厳密な定義と方法を用いた類似の研究は本邦では他に例がなく,この数字をもって日本人の代表値とみなすことはできないが,本書の何カ所かにも示されているように標準的な精神医療サービスを持つ欧米先進国の数値と近似である。本書の中にも示されているように,未治療期間の長さと予後には密接な関連が示されつつある。この期間の短縮は当面我々が目指す目標のひとつになりそうである。「精神疾患の早期発見・早期治療」という邦題にはそうした願いも込めている。
 周知のように精神障害なかでも精神分裂病は若年に発症し,その生命予後は他の身体疾患に比して決して悪くないにもかかわらず,社会的予後が不良な例も少なくなく一生を精神病院で過ごす人も今もって稀ではない。そのような病が,本書にあるように,発症当初5年間のインテンシヴなケアによって,その社会的予後に至るまで改善される可能性が見えてきたのである。一人の若者の,向後半世紀以上にわたる予後を大きく変えうる可能性を我々は手にしつつあるのである。今日未曾有の長寿社会を迎える中,生命予後の不良を省みずチャレンジされる膨大な医療を日常的に目の当たりにしながら,せめて何分の1かの努力でも精神障害の予防や早期治療に対して費やされるべきではないかと思うのは,訳者らだけではないだろう。
  (後略)

訳者を代表して 水野雅文 村上雅昭 藤井康男

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