日本語版への序

 石霜禅師は,弟子たちの修行ぶりをみるために,今ではよく知られるようになったある公案を用いていた(Cleary, 1993)。「百尺竿頭如何んが歩を進めん」これが石霜禅師の質問である。古代の禅師たちの多くの質問と同じく,これはとても理性や常識を受けつけないもののようであった。百尺もあるような長い竹の竿の頂上に登りつめたあと「さらに一歩踏み出す」など,いったいどうやってできるだろうか,ましてや,誰がそうしたいと思うだろうか? にもかかわらず,弟子の正しい理解を促す答えは「ともかく一歩踏み出せ」であった(Cleary, 1993, p.201)。
 この公案は,一つのメタファーとして理解することが最良であることを禅の伝統における多くの注釈者や解釈者たちが指摘している(Cleary, 1993; van de Wetering, 1999)。とくに,この話は,禅の修業を悟りに至ることだけに没頭してしまいがちなことへの警告なのである。悟りを「得た」とはすなわち「百尺竿頭」である。石霜禅師は「ともかく一歩踏み出せ」と弟子たちに仕向けることによって,悟りは求めて得られた結果ではなく,むしろ,修行を続けていく一つのプロセスであることを教えている。真の悟りとは,おそらく,常に次の一歩を踏み出し,今わかったことを「捨て」,新しい学習への希望をもって混沌を引き受けていくことであろう。
 その意味からすると,本書のタイトルでもあるいわゆる「治療不能なケース」とは,治療実践にかかわるセラピストにとって一つの公案と考えることができる。治療に訪れる大多数の人々は,彼らの人生の中で求めていた変化にとって有益な体験を見いだすが,少数ではあるが,専門家によるもっとも洗練された考え方や技法をもってしても変化しないままでいる人々もいる。この点で参考となる調査研究によると,いかなるセラピストであれ,受けた相談件数のうち約10人中1人のクライエントは,治療中,評価し得るなんらの進歩もまた悪化も示していないのである(Kendall, 1992)。この割合の低さはありがたいことではあるけれども,諸研究によれば,これらのクライエントのグループは平均的な機関における治療経費の大半を占めているのである。それは,確かに,対人援助のこの領域における献身の証ではある。しかしまた,メンタルヘルスの諸資源が縮小しつつあるこの時代においては明らかな問題でもある(Hubble, Duncan & Miller, 1999)。
 われわれのチームは,まず,最初に現在ある治療に関する論文を調べてみた。しかし,そこには過剰なほどの説明と人を悲しませ侮辱するようなラベルの一群(たとえば,抵抗,否認している,動機づけのない,境界例等々)しかなく,それらのケースからは「治療不能の公案」に対する真の答えはどこにもなかった。こうした理由から,われわれは治療のベテランに対する独自の5年間にわたる研究を開始したのである。その頃はまだ知らなかったけれども,この研究プロジェクトの成果が石霜禅師の「ともかく一歩すすめよ」というアドバイスに従うようわれわれを促してくれたわけである。別の言葉でいえば,今日われわれがもっている諸理論やモデルそして技法――いわば,治療それ自体の百尺竿頭――を捨て去り,新しい学習への可能性に身を委ねたわけである。そのプロセスは驚きと同時に心踊らされるものであった。願わくば,読者の方々にとって,本書の中で示している詳細な研究結果が,われわれがそうした治療不能例の臨床成果を改善していく中で得たものと同じようにお役に立てればと思う。
  (後略)

スコット・D・ミラー