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「序」より

 サイコセラピーには常に,心,技,論理的思考能力のすべてが必要とされる。これらの資質が十分に備わっていてはじめてサイコセラピーの技法を身につけるための出発点に立つことになる。
 大学生,あるいはセラピストになろうと考えている人にとって,専門家になるための道はまっすぐにつながっているように見えるかもしれない。適切な課程を修了し,必要とされる研修を終え,卒業試験を通り,さらに各州が定める試験に合格すれば,セラピストになれると思っているかもしれない。弁護士,公認会計士,外科医といった他の専門職と同様に,将来,セラピストになろうと思っている人の目の前にある道も同じように見えるかもしれない。しかし,サイコセラピーは,その専門家になろうとしている人,いやほとんどの経験豊富な治療者にとっても特別なことを求めてくる。
 最初の挑戦とは,個人的な観点がその基礎や技法に大きな影響を及ぼすという点である。たとえば,躾,小児期の状況,親やその他の人から教えられたことなどが影響してくる。これらのさまざまなことから,私たちは心の健康とは何か,普遍的であると思いこんでいる慣れ親しんだ感覚などを発展させていく。たとえば,結婚することは正しいことだとか,健康なライフスタイルを持つべきだとか,結婚したくないと思っている人は何か心に問題を抱えているとかいった考えをすでに身につけている。おそらく,異性とセックスすることは健康であり,その他の行為を好んだり,同性と性的な行為をすることは禁止されていて,倒錯しているなどと学習してきている。
 このような内容は一般の人々が心の健康について当然であると思い込んで身につけてきた事柄なのである。このような内容や,それから引き出されたいくつもの教訓の影響をまったく受けなかった人はほとんどいない。たとえば,健康な男性ははっきりと直接自分の意見を述べるべきであって,口ごもったり,泣き出したりしてはならないと教えられてきた。それとは対照的に,女性は自信がなく,生まれつきおずおずとしていて,不躾な物の言い方をしたり,大声をあげたりしてはならないという。健康な女性は男性が自分を守ってくれる代わりに,献身的で従順であるべきだといった役割を長いこと受け入れてきた。大多数のセラピストがこのような基本的かつ伝統的な男女の役割の差を今でも探し求め,男性や女性の患者からそれぞれ異なる行動を期待している。歴史上で長期間にわたって,男性と女性の行動には健全な差違があると私たちのほとんどが信じ込まされてきた。しかし,このような先入観が家庭内での夫の暴力や不倫を合理化するために用いられると,大きな害をもたらしかねない。
 そこで,セラピストとしての成功と他の専門職における成功との間には,明確な境界が存在する。セラピストはそのような経験に主として基づいて決断を下すのではなく,これまでに当たり前のようにして教えられてきたことから我が身を自由にすることから始めなければならない。最悪のセラピストは,たとえば,健康な女性はすべて子供が欲しいと思わなければならないとか,健康な人はみな異性を愛するなどということを信じ,それを患者に押し付けてしまう。健康な生活についての考え方が先入観によって強く影響されているセラピストはかならずその信念を患者に強制するものである。そして,このような押し付けは,サイコセラピーを求めてきた患者を非人間的に扱い,その心をくじいてしまう。
 このような先入観に明らかに現われているのは,人は皆と同じように行動しなければならないとか,集団で行動し,他の人が行なっていることをしていれば安全であるとかいった考えである。これは2つの意味で間違っている。第一に,幸福とは,個人が自分自身の真実,充実感,自由をどのように確保しているかに密接に関連している。たとえば,愛するとか,創造するときに,他の集団は必要としないのだ。
 第二の理由はより多くの害をもたらす。集団に合わせて行動すべきであると固く信じているセラピストが過ちをおかすのは,長期にわたって持ち続けてきた集団に関する幻想である。自分のことを孤独に感じたり,風変わりだと思ったりすることがある。しかし,自分自身が大多数の人からいかに遠ざかっていたとしても,かならず自分と同じような人も存在している。自分が誰であれ,何世紀にもわたって自分と同じような人がいて,幸せな人もいれば,不幸せな人もいたし,健康な人もいれば,不健康な人もいたのだ。しかし,多くの少数派が歴史から疎外され,その人生航路が前例として記録されてこなかったように,たとえば,結婚よりも専門職について働くことを好む女性とか,心地よい生活よりも耐乏生活を望む女性についての話も記録されてこなかった。しかし,多くの場合,いわゆる「規範を外れた」人が,群衆について盲目的についていく人よりもはるかに成功してきた。先入観に縛られたセラピストが示し,想像している群衆とは,真の群衆ではなく,しばしば,意図的に操作することを目的とした自己欺瞞のひとつに過ぎない。
しかし,偏見とか先入観がセラピストにとってどうしてとくに重要なのだろうか? 弁護士は自分にとって合法なことは,患者にとっても合法であると考えたとしても問題は生じない。ほとんどの場合,法律は法律であって,前例を尊重することが期待され,要求されている。前例こそが見習うべき事柄なのだ。また,患者が生きたいと願い,その心臓ができるだけ長く正常に働くようにすべきだと,心臓外科医が考えても問題はない。しかし,何が健康な精神かという問題はそれほど明確に断ずることはできない。しばしば,健康な精神についてのセラピストの考えは,根深い偏見や先入観に影響されている。
この点を詳しく説明するためにある話を紹介しよう。数年前,私は膝の腱を切断し,外科医のもとを受診した。その医師は,質問もしないで,私の膝が破壊されているので,まったく新しい膝が必要だと言った。さらに,私の年齢では多くの人が新しい膝を必要としているのだから,落胆するには及ばないとも付け加えた。私は別の外科医も受診したが,その人は,同じレントゲン写真を見て,内視鏡による手術で腱を修復することを勧めた。3週間後,私は手術を受け,目が覚めると,4時間足らずで病院を後にした。手術後2週間ばかりは歩くと少し痛んだが,それ以来,まったく痛みを感じない。
最初の外科医は世界的に有名な医師であったが,すぐに患者に根治手術をしようとしたのを見て,私はその人と先入観に縛られたセラピストを関連づけてしまった。その医師は,睡眠の問題を抱えている女性患者に対して同性愛をやめるようにと言った私の知っているセラピストのようであった。二番目の外科医は先入観を持たずに問題の部分を入念に診察し,局所的な手当で対処した。私はある特定の問題を抱えて,その医師のもとを受診し,医師もその問題を取り上げて,それ以上のことをしなかった。私は痛みを感じないで歩きたかったし,医師もそれを可能にしてくれた。また,医師はいったん私が立ち上がれるようになると,どこを歩くようになどとは命令しなかった。
 外科手術とは異なり,サイコセラピーはすべての点で主観的であるだろうし,いったん目的を逸れてしまった主観性ほど有害なものはない。他の分野の専門家とは異なり,偏見が常に生じ,専門家としての仕事に影響を及ぼす領域でセラピストは働いているのだ。ほとんどすべての専門家と同様に,大部分のセラピストは白人で,中流の男性で,そしてその結果として,この専門領域の概念に最初に影響を及ぼしたのはほとんどこのような人々だった。
 すべての職業の中で,サイコセラピーほど偏見や視野の狭さに影響を受けるものはない。それとは対照的に,たとえば,眼科医の場合,経済的地位,皮膚の色,性別,個人的な経験などが考え方に影響を及ぼすのは,ごく限られた患者に対したときだけである。ところが,サイコセラピーでは,精神の健康に関する先入観は,すべての診察場面で影響を及ぼしてくるだろう。したがって,このような先入観に影響されないことが出発点になる。
 こういった視点からとらえると,セラピストはさまざまな新しい考えから多くを学んできた。たとえば,フェミニスト,少数民族,片親,同性愛者,独身主義者,さまざまな経済状況の人々,その他のいわゆる規範を外れた人々といった,実際にはその他の私たちと同じようにさまざまな生き方をしている人々からセラピストは多くを学んできたのだ。また,この領域の基本原則を固めた先駆者達も偏見に凝り固まっていた。一例を挙げると,女性の性的な行動についてまったく何も知らない男性が,女性にとっての健康なオーガズムを知っていると考えた。誇大的で女性を蔑視するような男性が,権利に恵まれない人々を寄せ付けないようにし,関わりを避けるために,パラノイアだとか精神分裂病だとか診断したこともある。「妄想を一皮むけば,隠されていた同性愛が姿を現わす」とフロイトが自分自身妄想的で,誇大的で,被害的であった時期に書いている。
 サイコセラピーの創始者たちが人間の本質についてあまりにも多くの誤解を生み出してしまったので,現代のセラピストは真の貢献からその誤解を取り除くという非常に難しい問題を抱えている。サイコセラピーのすべての分野で,フロイトのような先駆者が生んだ誤解をそのまま受け入れると,患者にとってもセラピストにとっても有害になる。自分自身の偏見を超えるとともに,さらに今,私たちが知っていることを伝えてくれた先駆者達の偏見にも警戒を怠ってはならない。
 先入観を避ける最も確実な方法は,不安や目標についてそれが何であれ,セラピストが患者から学ぶという姿勢である。これは,患者が自分自身をどうとらえるかということから,サイコセラピーを考えるという意味である。患者が自分をどのように思い,どのように語るか,そして,本当に恐れていることを発見し,自責感にとらわれずにどのように目標を定めるかという点においてセラピストは助力していく。

 セイント・マーティン出版が本書の改訂版の発行を決めたと聞き,私はもちろん喜んだ。人格に関するいくつもの理論があるが,その中でとくに重要な技法があると私は考えてきた。たとえば,質問することによって,患者の自己定義に働きかける技法などはどのセラピストにとっても重要である。どのような質問をすべきだろうか? いつ質問すべきだろうか? どのように質問したらよいだろうか? 時々,患者に保証を与えるということはどのセラピストも行なっている。しかし,いつ,どのようにして保証を与えるべきだろうか? サイコセラピーの進展をどのように計るのだろうか? いつ,そして誰が治療の終結を決定するのだろうか?
 セラピストと個々の患者との関係が異なることも問題を複雑にする。セラピストは患者との関係やそれについての感情,そして患者の感情をも考慮しなければならない。たしかに複雑ではあるが,それだけいっそうサイコセラピーを魅力あるものにしている。セラピストは情緒的な関係と呼ばれるこの魅力的な関係の一部になる。
 本書を書くに当たって,さまざまな決断を下す際に私が有用であると考える一般的な原則,あるいはガイドラインを探し求めてきた。もともとは私が本書の概要をまとめようと考えたときに参考にしたのは,教育を担当した研修生が私に尋ねてきた数多くの質問や,それに私のサイコセラピーの経験の中から生じてきた問題点の数々であった。次に,私はそれらの質問に対して最も適切な答を考え,分類し,本書の中の各章,各項目に挙げた。
 本書は,訓練を受けてこれからセラピストになろうとしている人やすでにセラピストである人ばかりでなく,サイコセラピーを受けている人,これからサイコセラピーを受けようと考えている人にも読まれていることがわかった。セラピストとして,患者として,これからセラピストになろうとしている人として,サイコセラピーを受けようとしている人として,あるいは単にこの分野に興味を持っている人として本書を読んでも,何らかの期待に応えられることを私は希望する。
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