「日本語版への序」より

 このたび,『ナラティブ・ベイスト・メディスン:日本語版』が出版されることは,私達にとって大きな喜びであるとともに,この上ない名誉でもある。本書が日本の臨床家と研究者の双方にとって,有用な資源となることを期待している。西洋医学においては,疾患の病態を理解し,治療法を理論的に支える妥当で確実な根拠を求めることに対して,この上もないほどの熱心な努力がなされて来た。しかしそれに比べると,臨床において患者自身の体験を理解することや,患者と良好なコミュニケーションを保つことはあまり注目されてこなかった。私達が物語りに注目するようになったのは,西洋医学におけるこのような不均衡を強く感じていたためである。
 英国では,患者が医師に話すことを記録するプロセスを,臨床病歴聴取と呼ぶ。この技術は,臨床家によって常に医療の芸術として褒め称えられてきたし,どのような状況においても,診断の強力な手がかりをもたらすものと考えられてきた。病院の病棟回診や医学教科書には,選び抜かれた患者の物語が詳しく,かつくり返し述べられている。しかしこのような,定型的に構造化された形式に従って再構築され,医学的に念入りに作り上げられた物語は,医師と患者の間で実際に交わされる,生きた言葉の対話ではない。さらにまた,英国における診療の大部分が,診断学的なパズルをうまく解いてみせることにすぎないと考えられるべきでもない。むしろ,臨床医にとって大部分の診療とは,複雑であいまいな挑戦に直接対面することであり,そこでは間主観的な解釈が必要とされる。臨床の現場では,物語りの尊重と解読こそが,未だ十分に解明されてはいないとはいえ,重要な臨床技術なのである。
 家庭医と一般診療医は,暗黙の内に,日々の診療において物語りを聴取することとそれを解釈することの重要さに気づいている。しかし,私達が英国において第一線の医療を担い,一般診療医として日常の実践を行っているからといって,それが全人的な医療を保証するという訳ではない。一般診療医の仕事の大きな部分は,断片的な患者との対話や接触からなるモザイクから,継続的な患者の物語りを構築し,刻々と展開するこのような物語とのつながりを保ち続けることである。タイムズ紙のジャーナリストであったジョン・ダイアモンドが,専門病院の上級医師へ紹介されたときの経験も決してその例外ではない。
 「私(ジョン・ダイアモンド)は彼(紹介された病院の専門医)に,もう一度最初からそれまでの話しをした。それは,痛みのこと,リンパ節を触れたこと,血液検査の結果,腫れ物についてなどである。それらを全て話しているうちに,私はだんだん心配になってきた。かかりつけ医にその都度部分的に報告してきた医学情報としては,それはぼんやりとした断片的な症状のカタログ以上のものではなかった。しかし一連の物語として語られてみると,それは今までとは全く違って,単なるリンパ節の腫脹といったものを遙かに越えた,ある可能性をもった物語りとなったのである」(Because Cowards Get Cancer Too. London: Vermillion Books, 1998)
 専門医への紹介は,時に患者と医師にとって,新しい状況でよく考えなおしてみる新たなチャンスとなる。それは出来事や感覚や知覚の連鎖を,もう一度筋書きとして新たに書き直すことであったり,前医との短い診療の森の中で見逃されたかもしれない,物語りの意味の糸とその繋がりに焦点を当て直すことであったりする。
 西洋における物語りの研究は,臨床医学の内部よりも,その周辺領域においてより発展してきた。それゆえに私達は,『ナラティブ・ベイスト・メディスン』を編集するにあたって,幅広い学際的な観点を提供することと,物語りの研究と理解が臨床実践にどのように役立つのかの実例に焦点をあてること,の二つを大きな目標とした。1998年に原書が発行されてから,この分野の研究と教育の方法論に関するカンファレンスが,ロンドンとケンブリッジにおいて開催されてきた。
 私達は,日本の読者の方々に心からの挨拶を届けたい。本書の原稿が準備される間,監訳者の斎藤清二,山本和利,岸本寛史氏をはじめとする,日本の編集者と翻訳者諸氏と連絡を取り合うことは,私達にとっても大きな楽しみであり,新しい挑戦でもあった。彼らの熱意と勤勉な働きぶりと真摯な努力は,とても印象的であり,感動さえ覚えた。英語表現についての明確化や,説明や,言い換えなどについて問い合わせる,数え切れない丁寧なEメールに対して,私達はできる限り答えるように勤めた。
 私達はこの日本語版が,今後の討論や議論の刺激となり,物語りの理解が,全世界の患者に対する医療的援助にいかに役立つかを明らかにする,さらなる探求への道程として役立つものと期待している。

2001年8月   ブライアン・ハーウィッツ
トリシャ・グリーンハル