「序――家族援助のすすめ――」より

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 こんにち心理療法の主業務が精神科医の手から離れ,臨床心理士ならびに社会福祉士に次第に移りつつあるかのようにみえる。数の上からいえば明らかにそうであろう。
 要は,患者・家族にとって真に役立つ心理的アプローチが行われることが眼目であって,治療者の職種が何であるかは副次的な問題である。もちろん生物学的規定性の強い分裂病や感情病(因みに非精神病的な心的障害にも大小の生物学的基盤がある),さらには脳器質性の精神障害について,精神科医による医学的治療は欠かせないが,これらの障害者とその家族への援助は,それぞれの職場で,もっとも上手の者が主となって当たればよい。そこでも職種へのこだわりは無用であろう。もっともいとぐちから余談になって恐縮だが,こんにち臨床心理士が分裂病者とコンタクトをとる機会が乏しいのは残念である。分裂病を識らなければ,その臨床心理士の能力は多かれ少なかれ削がれることは必至である。
 さて,心理臨床の世界を見渡すと,援助・治療のための家族面接がひろまっているとはとうてい言い難い。
 それには,いろいろ理由があるであろう。
 ひとつは心理臨床が,治療理論として,ロジャース,ユング,フロイトといった個人心理療法の伝統に棹さしているという事情がある。
 他のひとつは――これがもっとも主要な理由なのだが――目下の対象者の症状・苦しみは両親に代表される養育者の養育のあやまちの故だとする思いこみである。自分は,そんな素朴な見方はしないとおっしゃる方も多いと思う。しかし一対一面接に終始するかぎり,この素朴で一面的な見方から,まったく解放されるのは実は至難なことなのではあるまいか。
 ほとんどの患者は,素質的・環境的に規定された対人認知の障害をもっている。その多くは,対人認知の過敏性とその尋常ならざる持続である。このような弱点も一対一面接の中では「優れた感受性」とか「詩的繊細さ」といった甘い評価を受けることがある。そしてこのような感受性の持主だから,その養育者評価は的確だと思いこむ人もいるだろう。しかしこのように過敏な感受性の持主だから,その養育者評価は多分に歪んでいるであろうとする見方がむしろ実状に沿っている。この手の患者たちは,養育者の大小の落度をすばやく見抜き,いたく傷ついて,その感情に固執するからである。
 その上,こんにちのわれわれは,不都合なことに,未曾有の子ども・若者迎合的で,かつ他罰的な社会を生きている。セルフ・アイデンティティの不確かな患者たちは深く,そしてわれわれ治療者はより浅く,この子ども・若者迎合性と他罰性とをしらずしらず取り入れている。
 右のような社会的・精神的状況におかれているからこそ,親が悪い,学校が悪い式の片寄った考え方に疑問を抱かない治療者がむしろ増えていないだろうか。このような見え方しかできない治療者にとっては,親はほとんど敵に映る。親に会うことを好まないのは当然である。まれに親に会っても,よく話し合いをするようにとか本人の要求をのむようにといった,具体性を欠くばかりか見当はずれの指示をしたり,過保護,過干渉とかいった手垢のつききった言葉を使って親に説教したりする。これでは地球環境破壊ならぬ治療環境の破壊である。
 まあ,右の二つが,家族面接の普及を妨げている大本であろう。
 いったん家族療法になじんでしまえば,個人心理療法では患者・家族について半分くらいしか認識していなかったことがおわかりになるはずだし,敵のように映っていた家族に安心を贈り,つねに敬意を忘れることなく,患者治療のための当てになる相談相手とみなすならば,家族は一転して有力な治療協力者となる。本書の表題は「家族援助」であるが,家族もまた治療者をおおいに援助してくれる。
 家族面接は,このような醍醐味を蔵しているが,当然すぎることながら畳の上の水練では駄目で,とにかく家族と会わなければならぬ。読者の方々は,本書を読みさしのままで,さっそく家族面接を始めていただきたい。
 心得としては皆様が学生時代から耳にタコができるほどきかされてきた「傾聴」を,まずは家族各人に及ぼせばよいので事は簡単である。技法はしだいに身につけていけばよい。もっとも治療者の最低限の仕事として,患者を含めた家族各成員の異なった言い分を価値中立的にまとめて,銘記した旨を家族に示さなければならない。
 本書は,ちかごろの家族療法の動向をめぐる魅力に富む解説にはじまり,分裂病,うつ状態,家庭内暴力・ひきこもり,摂食障害,境界例,アルコール症,夫婦葛藤,高齢者の在宅ケアと,家族援助の主要対象群を網羅している。共同執筆はときとして玉石混淆になりかねないが,編者のみるところ石は見当たらぬようである。これはひとえに執筆者の諸先生の精進の賜物である。しかし読者の方々のご感想はどうであろうか。
……(後略)

編者 下坂幸三