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「訳者あとがき」より

 本書は,アーネスト・ウルフErnest S. Wolf, M.D.による“TREATING THE SELF: Elements of Clinical Self Psychology”(The Guilford Press, New York, London 1988)の全訳です。原題は『自己を治療する――臨床的自己心理学の要綱――』ですが,本訳書では『自己心理学入門――コフート理論の実践――』としました。本書は,自己心理学の基本概念から実際の治療実践までが明快に大変わかりやすくまとめられた,優れた概説書であり臨床書だと思うからです。
著者のウルフは,自己心理学の創始者ハインツ・コフートが終生そこに身をおいたシカゴ精神分析研究所でコフートと共に自己心理学の研究と発展に貢献し,現在も活躍し続けているコフート派の精神分析家です。彼はコフートとの共著論文も発表しており,またコフートの盟友だったことでも知られています。
 ウルフは1920年,ドイツで生まれています。その後,アメリカに渡って1950年にマリーランド大学医学部に入学し,オハイオ州のシンシナティー総合病院で精神科レジデントを終え,1955年からはノースウエスタン大学で学生精神保健管理部の長を務めながら,シカゴにて精神分析のプライベート・プラクシスを始めています。そして1962年からはコフートが活躍していたシカゴ精神分析研究所で分析のトレーニングを開始し,ノースウエスタン大学助教授,シカゴ精神分析研究所講師,シカゴ社会心理研究センター副所長を歴任して,1974年に訓練分析家の資格を取得しています。ウルフはその後,自己の心理学に関する論文を次々と発表しています。コフートとウルフの共著論文「自己の障害とその治療 The Disorders of the Self and Their Treatment」が国際精神分析学会誌に発表された1978年は,ちょうどシカゴで第1回自己心理学年次総会が開催され,自己心理学が名実共に古典的正統派精神分析からの独立を確立した記念の年でした。そのわずか3年後にコフートは世を去りますが,その後もウルフは数々の研究を発表しながら,現在も自己心理学会の重鎮のひとりとして精力的に活躍しています。このようにウルフは,コフートのすぐそばにいて自己心理学の発展の歴史に参画し,彼の治療の真髄を体験的に知っているコフートの後継者のひとりであり,自己心理学の臨床的な入門書の著者としては,まさにふさわしい人物だと思われます。本書はすでに1993年にイタリア語,1996年にドイツ語に訳出されています。
 しかし本書は,自己心理学の優れた概説書であるだけに留まらず,ウルフ独自の理論的展開と深い臨床的洞察が随所に盛り込まれています。たとえばウルフは,映し返し,理想化,分身,融合への欲求にさらに「対立への欲求」と「効力感の欲求」を付け加え,さまざまな自己対象欲求がライフサイクルに沿ってどのように変化していくものかを明確に示しています。また,自己心理学的な治療が患者に治癒をもたらすメカニズムの中心として考えられている「自己対象転移の断絶−修復プロセス」については,それを四つの段階に分けて具体的にわかりやすく詳説しています。「分析における現実」の章では,“現実とは何か”という心理療法の最先端のテーマについて,「共感」とからませながらエキサイティングな議論を展開しています。
 昨今は,心理療法のどのような要素が患者に治癒をもたしているのかという,心理療法における効果性や治癒因子curative factorについての研究が,国際的に盛んになっています。心理療法の目的とはどのようなものであるべきかについても,現在,さまざまな議論が生じています。21世紀に入り,心理療法の本質についてあらためて問い直す動きが活発化しているといえるでしょう。そうした問題に対して,自己心理学はこれまでになかった新しい視点を提示しています。また現代は自己愛の時代といわれますが,自己愛の健康な発達や自己愛病理と治療についての自己心理学の理論は,最近の臨床における患者の理解や一般の人々のメンタルヘルスを考えるうえで,今後ますます有効なものとして重視され,援用されるようになるだろうと思います。
 本書訳出の経緯について少しふれたいと思います。1993年,私が留学先の米国メニンガー・クリニックから帰国する折に,当時メニンガーでレジデントをされていた岡野憲一郎先生から記念にいただいた一冊の書物が,本書でした。読みだしてすぐに,本書はコフートの自己心理学のポイントが非常にわかりやすくまとめられた,優れた自己心理学の概説書であると感じました。その後,ことあるごとに何度も読み返していましたが,今回,「共感」とコフートの研究で知られる角田豊氏と共に本書を訳出できたことは,感慨深いものがあります。
 訳語に関しては,自己心理学の中心的概念のひとつであるmirroringの訳語を統一するかどうかで迷いました。Mirroringは,訳者によって「映し返し」,「照り返し」,「映し出し」,「ミラーリング」,「鏡映」などさまざまに訳されています。検討を重ねた結果,本書では,mirroringが単独で用いられた場合は「映し返し」,mirroring selfobject は「鏡映自己対象」,mirroring experienceは「鏡映体験」,mirror transferenceは「鏡転移」としました。また,文脈に応じてcohesiveは「凝集した」や「まとまった」,responseは「反応」や「応答」に訳し分けました。Interpersonalは,対人関係の相互交流の意味を強調して「対人相互的」としました。Ambienceは,主観的に体験された環境という意味で「雰囲気」と訳しました。また「調律する」と訳されることのあるattuneは「波長を合わせる」としています。第3章のサルトルの『嘔吐』の引用部分の訳出については,白井浩司訳の『嘔吐』(人文書院)を参考にしました。その他の訳語については,先行訳を参考にしました。しかし翻訳上においても表現上においてもさまざまな問題が生じていることと思います。読者の皆様から忌憚ないご意見,ご指摘を頂戴し,今後さらに訂正を重ねたいと思います。なお翻訳は,安村が下訳を行っていたものを角田が各章ごとにチェックし,検討し合いながら,最終的に安村が全体の調整を行いました。訳出は下訳を始めてから数えると6年の歳月を要したことになります。
……(後略)
  2001年,夏

訳者を代表して 安村直己

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