「少し長いあとがき」より

 その病棟は慢性の患者がほとんどを占め,いわばかつての歴戦の勇士が,閉鎖された空間の中にうごめいていた。その昔爆弾といわれた太郎(本書,「爆弾と呼ばれた暴力行為の激しい患者JとI看護婦の5年間のかかわり」にある)はすでに大部屋に適応はしていた。しかし,その病棟の6つの保護室には,さまざまな試みにもかかわらず4人の長期保護室在室者がいた。かりにここでは,弘,泰,太,修と呼んでおこう。全員が,精神分裂病である。弘は,当時55歳で,戦地からそのまま精神科へと入院となった。「未復」と呼ばれ,文字通り未だ復員せず彼の戦争は終わっていなかった。ロボトミーを受け,行動は荒々しく,保護室から出ても凄いスピードで病棟内を動き回り,人にぶつかろうがおかまいなしであった。直立して敬礼をする姿に,わずかにかつての軍人を偲ばせるものもあったが,まさに荒廃と言うにふさわしい状態であった。弘は,それから数年後誤嚥のため死亡した。4人の中でいちばん若い泰は22歳,母と妹がともに分裂病である。14歳で発症し,その衝動的な暴力ゆえに大部屋適応ができず17歳の再入院時から保護室暮らしを続けていた。泰は現在も保護室生活である。太はO県の出身である。家族は国立の医療機関が治療するによいだろうということで,当所への入院となった。彼もまた保護室から離脱できるまで入院から25年の日数を要した(本書,「保護室生活25年からの離脱症例」)。修は,大腸癌の全身への転移で最後は自宅で姉に看取られ死亡した。
 ある日の出来事からまず述べてみよう。泰,太,修を入浴させ,しばらく3人を病棟内で過ごさせようということになった。スタッフはもちろん私自身も非常な緊張をもって病棟にいた。私のしたことは,その3人が直接対峙することがないように,ただただその3人の間をウロウロとすることだけであった。ここから私自身の保護室長期の患者への取り組みが始まったといってよいだろう。自分の無力と緊張と不安をこのときほど感じたことはなかった。それから数年して,ある学会で当所の長期保護室在室者の報告をしたことがあった。私としては学会が成功例の競い合いをしていることの反撥もあった。しかし,反応は冷やかなものであった。誰もこの問題は語りたがらないように。このような患者はいないわけではない。本書の村上の報告にもそれをかいま見ることができる。
 ここで修のことを少し詳しくふれてみよう。修は,4人兄弟の末っ子としてM県に生まれた。高校2年の頃,目と心が一致しないと言い1カ月通院,X年には2カ月入院した。高校を卒業後,家族の希望で地元より遥か離れた当所を初診した。1年間入院するが,離院し退院となった。当所退院後地元の病院に2年間入院し,しばらくは調子良かったが,「自分の考えていることが皆に分かる。TVが自分のことを言っている」と口にし,さらには家人への暴力もあり,X+3年当所2回目,当時の保護室病棟への入院となった。その後一貫して,被害妄想に基づき離院・暴力・拒薬を繰り返し,保護室から出ることはなかった。また,「自分の病気は宗教でしかなおらない」と言い長時間読経してすごしたり,「○○店のものが自分を陥れる」「吉良(忠臣蔵)の仲間が自分の邪魔をする」と言い,特定の看護者に妄想を持ち攻撃を繰り返した。以上の経過はありつつも,随時部分オープンはしていた。X+10年のミーティングでは,妄想の対象となっている看護者は,「勤務交代したい,それが駄目なら患者を転棟させて欲しい」と言い,かなり緊迫した状況になったこともあった。X+13年頃より病棟の開放化が具体的にすすみ,同時に保護室の患者にもインテンシブにかかわるようになった。特定の看護者には「結婚したい」と言ったり,性的な接近もみられるようになった。さらに,妄想のみでなく「自然になりたい。脳細胞がバラバラになっている。外に出ても目のやり場に困る」と口にすることもあった。X+15年になると患者の希望を入れて数カ月保護室をオープンするが,その間も離院や,看護者・患者に対する暴力などが続き,限界的とも言える状況の中で再び保護室をロックし,患者も「l年閉めてくれ」と言った。その後も妄想状態,昏迷状態は続き,電気けいれん療法,鼻注なども行われた。また,以前は信頼をよせていたかに見えた看護者を罵倒し暴力に及ぶこともあった。そして,攻撃するかと思えば保護室内のトイレに隠れたりして,攻撃とひきこもりという行動もみられた。この間,タバコの火,小遣,拒薬などに対する対処をめぐって,頻回にミーティングがひらかれたが「規制すれば,ますますコンタクトがとれなくなる。ゆるめれば火災やトイレづめがおこる」というジレンマの中でスタッフも方針を出すのに苦慮する状態が続いた。
 X+19年からその後の16年間を私が担当することとなった。その当時の修の保護室には,歴代の看護者の名前,吉良……,隣の店の名前などが鉛筆でびっしりと壁一面に書かれていた。私は,状態の比較的安定している時は,一緒に散歩したりタバコを吸ったり,「自然」な付き合いをする機会を頻回に持った。しかし,ゆったりすごせたかと思うと,一転して手にタオルを巻いて「決闘するか」と,気色ばむ場面も度々経験した。その後も,基本的に病状に変化はなく,加齢の影響もあるのか,少し激しさはおさまったとはいえ,昏迷状態と,妄想により攻撃的となる時期を繰り返した。そして,良ければ保護室から出す,悪ければ出さず余り無理をしないといういわば当たり前の方針で対処を続けた。その間も山あり,谷ありでそのエピソードを書くとおそらく凄い分量になるであろう。
 今回の入院から31年目,嘔吐があって診察したときには腹部に腫瘤を触れ,CTで肝臓に多数の転移病巣が認められ,大腸癌の末期と診断された。当所での処置は続けつつ,最期は修が何回も離院して帰った郷里の病院で過ごさせようということになった。転院先も決り,朝早くに,病院の車で点滴をしながらの出発となった。彼にとって,31年目の正式の帰郷であった。修を転院先の病院に送り届け,夕暮れどきに病院へ戻ったとき,やっと終わったという安堵感と一抹の淋しさを覚えたのは同行した受持ちの看護者も同様であっただろう。それから数カ月がたって,はるばる姉が訪ねてきた。49日が終わり修の写真を持ってお礼方々来院したという。最期は姉宅で看取ろうと,嘔吐は繰り返しつつ修の希望するものを食べさせていた。持参した写真には,凄い形相で布団に座っている写真と,仏壇にある遺骨と花の写真があった。

 本書から伝えられるメッセージがあるとすれば,それは2つであろう。まず何よりも,「何とかしなければ」というスタッフの情熱からしか取り組みは始まらないということ,そして,時間はかかるが決してあきらめてはならないということ。今日,「処遇困難」という言葉がこの業界を席巻している。ともすればこの言葉は,「自分らの視野から消えて,どこかに」と使われることが多いのではないか。しかし,日の当たらぬところで,弘,泰,太,修と同様な患者をかかえ悪戦苦闘しているスタッフの方も多くおられるであろう。本書を読まれたそのような方々のご意見をこそ伺いたいと思う。

2002年4月 吉住 昭