訳者あとがき2

 リジリアンス(resilience)という言葉を僕が初めて耳にしたのは,1990年のカリフォルニアでだった。MRIブリーフセラピーのトレーニングの中で,「ブリーフセラピーとミルトン・エリクソンとの違いを説明してくれませんか?」というトレイニーの質問に対してディック・フィッシュが,こんなふうに答えた時である。「似ているところは,病理を考えないこと,現在に焦点をあてること,課題を与えること,クライエントの立場を重視すること,クライエントを立ち直りの早い者resilientとして想定することだね。ただし,エリクソンが,困難というものを個人の中に認める,いわばモナディックな認識論に立っていたことや,フロイディアンというよりはユンギアンのような“無意識”を考慮していたこと,それに,規範的価値を念頭に置いていたところは,私たちと違う点だ。もちろん,技法的にも,エリクソンはトランスを利用したし,力も採用して,グルのごとき権威的な語り口も使ったから,そこんところも,違うね」――辞書を引くと,リジリアンスには「回復力,快活,元気」の他に「弾(力)性」という意味がある。後者は,物理学用語のようである。僕のような医学畑の人間は,「弾性」などと聞くと,もう反射的に「弾性線維」elastic fiberなんかを思い出すので,とりあえずカタカナでリジリアンスとしておく。
 その次にこの言葉を目にしたのは,1996年の日本でだった。ファミリー・プロセス誌のメFamily Resilience: A Concept and Its Applicationモという特集を目にしたときである。そこには,フロマ・ワルシュの論文とデイル・ホウリーとローラ・デハーンによる論文が掲載されていた。
 彼女は,シカゴ大学家族保健センターの教授で,日本でも,キャロル・アンダーソンとの編集本である『慢性疾患と家族』(金剛出版)が邦訳されており,その名を知られている。彼女の論文「家族リジリアンスという概念:危機と挑戦」では,まず,ディベロップメンタル・サイコパソロジー(DP)においてここ20年ほどのあいだに研究が進められてきた個人のリジリアンスについての展望がおこなわれている。リジリアンスという用語は,危機や逆境を迎えてもそれに耐えて立ち直る能力のことを示している。
 本題に入る前に,この概念を提唱しているDPという領域について補足しておこう。DPとは,文字どおり,サイコパソロジーを考える上での発達の重要性を主張するのだが,その理由について,英国の精神科専門医試験準備用のテキストとして有名な『オックスフォード・テキストブック・オブ・サイカイアトリー』は,こう記している。第一に,子どもの発達段階がある行動を正常か病的か決定するため(たとえば,3歳の夜尿症は正常だが,7歳では異常),第二に,ライフ・イベントの影響は,子どもの発達によって異なるため(たとえば,6カ月未満の子どもの扶養者交代はそれほど大きな影響を与えないが,6カ月から3歳では大きな困難を来し,それ以上では言語発達によっておぎなわれるが故にその影響は軽減される),第三に,子どもの加齢によってサイコパソロジーも変化しうる(たとえば,小児期の不安は徐々に改善されるが,うつ状態はしばしば繰り返され成人にまで持ち越される)ため。
 個人のリジリアンスについては,ロンドンにいる自閉症の大家,ラターなどが,1980年代から精力的にリジリアンスについての論文を書き続けている。リジリアンスに関するもっとも有名な研究は,ウェルナー(どうでもいいことかもしれないけれど,この人,女性心理学者です)によって1955年に開始されたリサーチ。そこでは,カウアイ島の698人もの貧困にあえぐ子どもたち――そのうちの3分の1はストレス下あるいは機能障害的家族で育てられている――の多くが立派な成人になっていくさまが調査されたのである。対象となった子どもたちは,既に中年になっている。本研究によって,リジリアンスを培う上では,頼りになる人との強い絆が重要であり,それは社会的文脈の中で時間をかけて達成されることがわかってくる。つまり,個人の特質とだけ考える限界が示されるわけだ。
 そこで,正常家族を長年研究してきたワルシュとリジリアンスが合流する。しかも,それは「リジリアントな家族」というモデルを提示することではなく,家族が逆境に立ち向かう能力を強化するような鍵となる過程を探求するのだという。現代のように家族の多様性があり,社会の変化がめまぐるしい時代では,危機は次から次に訪れるわけであるから,それを乗り越える力を研究すべきだという主張にはうなずけるものはある――ここで,「危機」と書いたが,このcrisisという意味の中国語が“danger”と“opportunity”とから成り,そこでは既に,リジリアンスが逆境にもかかわらず残っているのではなく,逆境を通して鍛えられ作られるという本質が提示されていると喝破したのも彼女である。ワルシュの主張する「家族リジリアンス」という概念は,DPよりも短い時間を射程に置き,病理よりも健康度に焦点をあてるのだという。ケースは2例紹介されているが,論文の性格上,面接内容などは明らかではないので,ここでは省略することにする。さらに詳しくお知りになりたい方には,彼女の『家族リジリアンスの強化』がある。
 一方,ホウリーとデハーンの「家族リジリアンスの定義に向けて:ライフ・スパンと家族という視点を統合する」も総説である。ふたりとも,ノース・ダコタ州立大学の人間発達教育学部小児発達家族科学科の助教授。ワルシュの論文と重複するところも多いが,以下の3つの問題が考察されている。「家族リジリアンスという概念は,文献的に新しく独特な貢献をするのか?」――危機にうまく対処した家族の特徴や強さについての研究は,1930年代にまで遡れるが,そのテーマをさらに洗練させ,家族エトスという概念の発達に焦点をあてていくところがミソである。「リジリアンスを家族レベルの構成概念とし考えるのは妥当なのか?」――論理的には妥当だが,測定に困難が伴うであろう。「個人レベルのリジリアンス研究は,家族レベルのリジリアンス研究にどのように影響するのか?」――両者の共通点から考えれば当然影響は大きいが,家族リジリアンスは,個人リジリアンスほど長い時間を射程に入れていないこと,予防を重視していること,さらに,家族のリジリアンスと個人のリジリアンスが相互に影響を及ぼし合うことを考慮していくべきだと指摘されている。ところで,この論文では,家族リジリアンスが以下のように定義されている。
 「家族リジリアンスは,ある家族がストレスに直面した際に順応し,うまく乗り切る,現在および数年にわたる過程を記述している。リジリアンスな家族は,そのような事態にユニークなやり方で,ポジティヴに反応する。そのやり方は,文脈,発達レベル,危険因子と予防因子の相互作用的組合せ,そして家族の共有された見解によって決定される。」(p.293)
 そして,このリジリアンスというまったく未知の概念に関する多くの文献のうち僕がまず入手したのが,本書,ウォーリン夫妻の『リジリアント・セルフ』である。1998年当時,アマゾン・ドット・コムでは3割引の16ドルだった。内容はお読み頂いた通りである。もちろん,家族リジリアンスではなく個人のリジリアンスがテーマである。
 訳出後,読後いろいろな疑問が湧く。アンビバレントな感覚。ある研究会でもさまざまな意見が出た。7つのリジリアンスは結局成人したサバイバーたちが大人の認識で語ったストーリーに過ぎず,問題の多い家族の中でリアルタイムで暮らしている子どもたちにとってどのくらい有効なのだろう? リジリアンスが能力ないし個人の特性に還元されてしまうと,本質主義への退行でしかないのではないか? 引退した刑事がとんでもない事件に巻き込まれスーパーヒーローとして活躍する安手のハリウッド映画のようなアメリカ文化のひとつに過ぎないのではないか? 新しい概念を前にしたときのしかるべき反応である。これから臨床の中で考えていきたいと思う。もっと文献を読んでいこうと思う。そして,より良き概念となるよう洗練していく動きを支持しようと思う。もちろん,読者の皆さんと一緒に。
 ところで,実際の臨床の中でも,リジリアントなクライアントや家族というのは,思い浮かぶものである。治療者の治療的関与から想定されるような展開の何倍も何十倍も大きく人生を展開していく人たち。それは問題解決などという次元とはまったく違うものである。そういう人たちを,香川医大の石川元教授はいみじくも「世間話だけして帰る人たち」だと教えて下さった。もっと言うなら,そう,適切な手みやげをもってくる患者さんたちである。そういった人たちを僕たちは,「自然治癒」だと思って考察の域からはずしてきたのではないだろうか? それを表現する言葉がない以上,闇に葬り去られるしかない臨床データだったのだ。
 最後にどうしても記しておきたいのは,これまでリジリアンスが日本に紹介されなかったという驚くべき事実について。日本の児童精神科医はダメージ・モデルでしか考えないために,ラタ−が何本か論文を書いても興味を覚えなかったのだろうか? また,「アダルトチルドレン」,「トラウマ」と書店の心理学コーナーを賑わしている日本でのムーブメントでもリジリアンス紹介は皆無である。まるでダメージ・モデルと整合性のないものは,税関で引っ掛かり,それを免れたものだけが日本の精神療法文化を社会構成しているみたいだ。たとえば,災害や多くの人々を巻き込む事件がひっきりなしに起こる現代,たしかに「心のケア」は強調されるようになったけれど,それによってリジリアントに人生を展開していく人々についての研究は耳にしない。さて,この「雨降って,地固まる」という概念,どこまで研究として,また治療概念として日本では展開していくのだろう?

2002年3月  小森 康永

(文献略)