「序文」より

……(前略)
 本書に所収されている論文はいずれも臨床の中からうまれてきた。医学の研究には3つのアプローチがある。文献を検討・研究するアプローチ,実験室での研究というアプローチ,そして臨床の実践すなわち診療の場そのものが研究と教育の場であり得るというアプローチである。実践的臨床アプローチでは,好き嫌いは許されない。薬物療法であれ精神療法であれ,精神分析であれ家族療法であれ,有用性を真剣に考えなければならない。しかし,たんに「あれもこれも」では首尾一貫性がないし,統合という言葉では抽象的になりすぎる。各論文に貫かれているのは,こうした問題意識である。そして,この複雑な問題に対処するとき,一連のシステム論は大いに役に立った。たとえば,パーソナリティ障害は疾患か否かという議論がある。精神医学では疾患ではないという意見が大勢である。だから,しばしばパーソナリティ障害患者やその家族を前にして「病気ではありません」という精神科医が登場するのである。ただしそれは,古典的医学モデルに準じる限りにおいて正しい。しかし,視点を変えてシステム論モデルによれば,重症パーソナリティ障害は,古典的医学モデルによる疾患とは別の異なった次元,位相における疾患だと考えることができるし,そこにおいては精神療法が効力を発揮するのである。
 本書のタイトルに用いている「重症人格障害」という言葉は,カーンバーグの著書「Severe Personality Disorders」を真似たものである。DSM‐Ⅳの時代にあって,境界例は境界性人格障害,スキゾイドは分裂病型人格障害と読み間違えられ易い。そうした誤解を避けるために,曖昧ではあるがより包括的な言葉を選んだ。

 本書に収めた論文は,1980年代後半から1990年代中頃にかけて発表されたものである。おそらく私が,東海大学病院精神科病棟と外来で,同僚と共にパーソナリティ障害の治療に最も多くの時間を費やし熱中していた時期である。ただ各論文は,割合短い期間に,異なった領域や学会で発表されているので,各論文の内容に多少重複があることはお赦し願いたい。この本は3部から成っている。第Ⅰ部で,まず精神分析的なパーソナリティ障害論を展望し,その上でパーソナリティ障害の類型化,成因,発症時期と変遷,青年期とパーソナリティ形成,について述べている。そこに流れている基本的な考えは,人間のパーソナリティを連続的かつ不連続的に変化する複雑なプロセスとしてとらえているということである。パーソナリティは人生のどこか決まった時点で完成したり,その発達を終えるものではない。もうひとつの考えは,パーソナリティが家族の他の人々や社会の関係する人々から隔絶されて変化するのではなく,それらと共に変化し成長する力動的システムとして理解するということである。パーソナリティ障害は,古典的医学モデルの用語である「発症」では表現できない。パーソナリティ障害は,関係の中で「発見される」のである。ただ第1章から第4章までは包括的な内容なので,教科書的に使用して頂いてもよいかと思う。第Ⅰ部の最後の章「スキゾイド患者について」は,治療構造論の視点からみたパーソナリティ障害の病理と治療にかんする事柄を考察している。この論文は,こなれの良くない部分が多々あったので,本書のために基本的趣旨に変更は加えずに,しかし大幅に改訂した。ここには,私の臨床的着想で重要なものが多く含まれており,その後の私の臨床や研究の基礎となっているので,読者の方はここから読んでいただけるほうが,全体を見渡せるかもしれない。
 第Ⅱ部は,境界パーソナリティと自己愛パーソナリティの精神療法に関する基礎的な事柄を取り上げている。ここの各章はいずれも,教科書的な内容を含みながら,その後の私のパーソナリティ障害研究や精神分析研究にとって刺激的な着想が含まれている。たとえば,治療過程で起きる現象や治療過程そのものについて論じるとき,表象と記憶という相補的な概念がとても有用であること,精神療法過程を主観的視点から把握するとき,精神分析における空間的概念よりも時間的概念がより本質的になってくること,パーソナリティ障害の治療における早期改善のサインを抽出することの意義などである。第7章「内的空間の形成過程」は,その一部は学会などで発表したが,基本的には本書のために書いたものである。ここでは,現実的接触はあるものの内的対象関係が成立していない初期の段階における治療技法上の問題を考察している。そして,この章だけ文体が「ですます」調になっているのは,パーソナリティ障害の精神療法に関して,いま私が読者に最も伝えたいと願っている「治療感覚」について考察しているからである。また,この第Ⅱ部には中年期の自己愛パーソナリティ障害の治療を加えた。最近の精神医学では,気分障害に対しては,薬物療法と認知療法が定番的処方とされているが,はたしてそうであろうか。われわれの臨床経験からすると,それらだけでは改善が十分ではないグループ,さらにはそれらではほとんど歯が立たないグループが存在することがわかってきている。気分障害の背景にある自己愛病理の見極めとそれに対する治療アプローチが必要であるという主張から,さらには臨床精神科医や臨床心理士にこうした視点を是非理解してもらいたいという願いからこの章を加えたのである。
 第Ⅲ部では,まず精神分析の治療機序について考察している。精神分析は,その治療対象の変遷に伴って治療アプローチが変化し,理論の修正が行われてきたという観点にたって,かつては二次的な意味しか持たなかった支持的アプローチの再考,個人精神分析に比べれば一ランク低いとみなされてきた夫婦家族療法,集団療法をふくむ精神分析的入院治療の一義的な治療価値について論じている。私は,このような変化は,精神分析の放棄ではなく,精神分析そのものの進化,われわれの臨床的パースペクティブの展開であると確信している。最後の章は,教育研修に関連している。精神科研修医にとって,境界例治療に関与することがどのような価値を持つのか,そして教育研修を提供する側つまりは教える立場に立つ精神科医はどのようなことに留意すべきかという問題を論じている。
 このように本書の各論文は,その発表年度順ではなく,内容によってⅠ部からⅢ部にそれぞれ収められているので,読者はどこから読んでも良いと思うが,まずは「スキゾイド患者について」「内的空間の形成過程」「境界例治療の研修に与える影響」あたりから入ると,私の主張が明確に読み取れるのではないかと思う。
 最近,「girl, interrupted(邦題,『17歳のカルテ』)」と言う映画を観た。A.ジョリーがアカデミー助演女優賞をとった映画だといえばわかるかもしれない。1967年から1969年の米国東部の精神病院(あの有名なMcLean病院)が舞台である。18歳のボーダーラインの少女が(邦題が17歳というのはいささかおかしいが,最近流行の17歳問題とひっかけたのであろうか),自傷行為をして入院させられ退院するまでの物語である。これは,原作者であるSusanna Kaysen自身の自伝的物語で,原作が発表されたとき,米国で,とくに若者のあいだで,もっと早くこんな治療があることを知っていたらよかったのにといった類の共感を呼びかなり話題になったそうである。ボーダーラインの入院治療は,混乱の連続であるが,それが実に正確に描かれている。個人的には,私は,メニンガー留学時代を思い起こし(といって,私が留学したのは1980年代前半だから,その頃の入院治療は,精神分析理論を中心的な治療理念としながら,家族や集団を治療の媒体として積極的に用い,薬物療法,認知・行動的アプローチ,活動療法,ソーシャルワークなどを導入し,この映画で描かれている治療よりも遙かに洗練され高度になっていた),あるいは米国における1960年代の市民権運動,ベトナム戦争が背景となっていて,自分の青年期と重ね合わせ,夢中で観てしまった。精神療法的にみて面白いのは,治療者側の視点ではなく,患者の視点から描かれていて,専門家の考え方と患者の考え方がいかに違うかがよくわかることである(ちなみに,原作には著者の本物のカルテのコピーが掲載されている。主治医やナースの名前の部分だけ黒で消されているが)。しかし,もっと関心をひかれたのは,両者に共通している視点,つまり「こころの成長」と言うことが見事に描かれているところである。
……(後略)

2002年8月 狩野力八郎