もどる

「まえがき」より

 人格(personality)とは,個々の人間の認知や行動,対人関係など幅広い領域において人間の精神機能を映し出す最も基本的な概念の一つである。そしてこれは哲学や心理学などの多くの領域で長く重要なテーマとされてきた。そしてもちろん精神医学においても,人格は人間の行動の一貫性があり予測可能なパターンであると捉えられ,人間の精神活動のあり方を基本的に特徴づけるものであるために,精神病理の理解とその治療の上で特別に重視されなければならないことは論を俟たない。精神医学全体を眺めると,後に示されるように人格との関わりが問題にならなかった精神障害はおよそ存在しないといってもよい。これには人格上の問題が前面に出ている狭い意味の人格障害を始めとして,内因性精神病に関連づけられた気質論的人格論や病前性格論,脳器質性障害や精神病に続発するいわゆる人格変化,精神障害の病因としての人格に関する議論などを挙げることができる。そのような観点からすると,これから本書で多く扱うことになる米国精神医学会(American Psychiatric Association (APA))の策定した診断基準(診断と統計のためのマニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)でその第三版(DSM-Ⅲ)(1980)以降,従来の一般的な意味での精神障害(第Ⅰ軸診断)から独立の軸として人格障害診断(第Ⅱ軸診断)による評価を必須のものとしていることは,まさしく正当な扱いというべきである。
 反面,この人格概念の奥行きの深さは,その取り扱いが簡単でないことを意味している。この人格の固有性と多様性こそは,個々の人間の尊厳を裏打ちする当のものであり,それを尊重することは我々の社会を成立させている基本原理の一つとなっている。それゆえ本来的に,人格は単純な類型化や一面的な評価を拒む性質を帯びるといってよい。数多く案出されている人格傾向や人格障害を評価する尺度や基準に十分な妥当性を期待しがたいのも無理からぬことかもしれない。そして第二に,このような人間の内奥の領域を含む人格に対して何らかの介入を行うことには,その倫理面への配慮が不可欠であることが指摘されなければならない。このような人格障害を巡る状況から,従来の議論が直線的に進展せず,それにまつわる混乱が容易に収束しないことが理解されよう。
 本書の目的は,このように精神医学の中でユニークな位置を占める人格障害への臨床的対応についての論議を深めることである。このためには,現在の人格障害の疾病論的位置づけなどといった基礎的な議論も必要となるだろう。ここにはまだ多くの混乱が認められていて,議論の先が見通せない状況が続いている。しかし他方,その臨床的側面では,伝統的な人格障害概念を基礎に構成された米国精神医学会の第3版以降のDSMや世界保健機構(World Health Organization (WHO))の国際疾病分類第10版(International Classification of Diseases (ICD-10))(1992)に収載された人格障害類型やその診断方法が一種の共通言語として普及したことを背景として,その臨床的意義も徐々に明らかになってきたように感じられる。このような人格障害についての基礎的議論やその臨床的意義については,本書の第Ⅰ部 人格障害の基本的特徴において扱うことにする。そして次の第Ⅱ部 精神科診療における治療では,臨床の場における人格障害への対応に焦点をあてて,一つの治療モデルを提示したいと考えている。そしてさらに第Ⅲ部では,実際の症例の長期的な治療経過を提示し,それに対して第Ⅰ部や第Ⅱ部の理解を照応しつつ,臨床的な立場から考察を加えることとしたい。しかしこれらの3つの部分は,互いが互いを基礎として形成されてきたという関係があり,本来密接に結びついているものである。それゆえ,本書の記述には必要に応じて,それに対応する記述の箇所を示すことにするので,それを随時参考にしていただけたらと思う。
 次に,本書における治療の基本的な立場を簡単に記しておこう。本書に示されている治療は特定の理念や技法に基づくものではなく,ごく一般的な精神科臨床における治療である。精神療法の基本的な型としては,精神療法的マネジメントもしくは支持的精神療法として位置付けられるだろう。そこでは,患者との個人面接を基本として,家族への介入(家族との協力)や向精神薬による薬物療法などのさまざまな治療法が組み合わされる。そして,治療上の必要や治療の設定に応じて組織された看護スタッフやケースワーカーなどを含めた治療チームによる治療や他の関係機関のスタッフとのチームプレーもまた,重要な治療要素に数えられている。これは,人格特性が生活場面に広く染み出ると同時に,さまざまな生活場面に影響を受けるものであるから,生活の広い範囲での対応や患者のさまざまな経験の積み重ねが,治療に通じるであろうという考え方に基づいている。それゆえ,その治療では,治療場面での関わりはもちろんであるが,家族や関係者をも対象とする生活全般への働きかけも重視されることになる。
 本書では,このような基本姿勢に基づいて,一つの治療モデルが提示される。しかし,この治療モデルを提示することは,決して単純な仕事ではない。一般に治療モデルは幾つかの要素から見ることができる。それはまず,病理の理解とそれに対する治療技法からなる治療の技術的問題である。さらにその技術論の下支えをしている基本的な心構え,つまり一種の思想も重要であろう。実際の診療場面では,これらの要素の間で微妙なバランスを保つことが必要になる局面がしばしば生じるだろう。さらに,人格障害を抱える人々との関わりには,特別に多様な局面がある。例えばそこには,本格的な治療的関与から,治療外の事情で関わりを開始して治療に十分に踏み込めない場合や,マネジメントを主体として経過を観察することまで,さまざまな関与のレベルがある。治療者の立場をどの辺りに定めるかという問題も,単純な答えがいつも得られるという性質のものではない。このように対応にごく多彩な選択があるということは,その臨床的対応を難しくしている理由の一つに数えられるだろう。但し,治療者にとって広い選択の幅があることは,この治療が臨床のセンスや芸(art)を活かす場であると考えることも可能であろう。筆者は,さまざまな治療要素の絡み合いや錯綜した治療局面の理解を,治療の実際的ポイントと基本的事項の両方を視座において記述したいと考えている。そこでは,さまざまな視点からの理解を結びつけることによって,治療の理解を発展させることも期待できるだろう。本書において筆者は,そのような作業の結果をまとめたつもりである。
 この前書きでは,あと二つの事項について記しておきたい。それは,人格障害の呼称の問題点と本書における症例の取り扱いについてである。
 本書ではpersonality disordersの呼称として最も一般的に用いられている人格障害を用いることにした。しかしこの人格障害の語には,それを使うことによって人格障害が社会的にマイナスの価値の付与された障害であると誤解される可能性がないとはいえない。このような誤解から,人格障害の評価に価値判断が混入しているという批判が生じたり,この精神障害の治療で他者がみだりに踏み入ることのできないはずの個人の人格に手が加えられるという恐れが表明されることがある。私はこの概念を精神医学的概念として洗練してゆかなければならないと信じるものであるが,この語を使う場合に,患者の自尊心が傷ついたり,不安が増したりすることで,患者に不利益が生じることを極力避けるようにするべきだと考えている。ここでは,この精神障害の呼称の問題が残されており,今後とも議論を重ねる必要のあることを確認しておきたい。
 第2点は,本書における症例の記述に患者のプライバシーを保護するために大幅な変更を加えてあることである。症例の大多数は,むしろ架空のものとご理解いただいた方が良いかもしれない。その理由は,承諾を求めるための連絡が取れないとか治療中でそのような承諾を求めることが適切でないと判断されるとかの事情で,文書による公表の同意が得られていないケースでは,臨床的リアリティを失わないように配慮しつつ,実際の複数の症例を合成して一つにまとめたり,個人的情報を大幅に改変するなどして,本人と絶対に同定できないように記述されているからである。患者本人から文書による同意を得ている少数のケースでも,本書が一般の方の目に触れる可能性があるという性質上,幾つかの記述に改変を加えている。このような処理が行われたのは,本書の基本的な主張に鑑みても,そして臨床に携わる者の最低限のモラルとしても,患者のプライバシーを侵すことを避けるために最大限の努力をするべきだと考えるからである。しかしこの操作によって,本書の生きた記録としての価値が低下することは否めない。ここに,読者各位のご寛恕を請う次第である。
もどる