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「あとがき」より

 本書を書き終えて,筆者である私には安らかな充足感が強く湧きあがっていることはいうまでもない。しかしこの本の未来について一種複雑な想いを抱いていることも告白しなければならない。
 12年前,私は境界例の精神療法の一モデルを提示するために一書を著したことがあった。本書では,それとは随分と異なる,新しい内容を盛り込むことができたと自負している。それは,執筆した時期によって私の個人的状況が大きく異なっているのだから,むしろ当然のことかもしれない。中でも最大の変化は,受け持ち患者数と管理的業務の増加,さらに加齢による治療者としてのエネルギーの低下によって,一人一人の患者にかける時間とエネルギーが減少しているということである。この本で大きなエネルギーを要する近接した患者・治療者関係の記述が以前と比べて随分と減っているのは,その事情による。しかしこのことを私は欠点だと考えていない。そもそも本書に示された治療モデルは,その時期の私自身にとって実に有用であった。その上,大きな手間が掛からないことは,治療モデルにとって普及可能性を高める好ましい特性だと考えることも可能であろう。
 この12年の年月には,やはり大きな重みがある。この間に多くのことを患者,同僚,他の専門家から学ぶうちに,私は自分の内部に前の本ではどうにも収まりきらない治療理解が生じていることに気がつくようになった。その理解を自らの臨床に応用し,実践した結果を形にしたのが本書である。その過程では,12年前の自分の主張と現在の自分の臨床を比較し,その相違点を見つめる作業が必要であった。それは,かつての自分の主張と論争をし,それを乗り越えようとする作業だといってもよい。このような同一人物の内部での対決は,時に苦痛を伴うものとなった。その結果,治療の最も基礎的部分である治療関係の理解には大きな変化がないけれども,記述の力点は治療関係の理論的な把握から臨床的問題への具体的な対応へと大きく移動することになった。
 本書の上梓は,新たな出発である。この本は,これからさまざまな人格障害の新しい理解や精神科医療を巡る状況の変化の波にもまれることになるだろう。頭書の複雑な想いとは,本書のこのような行く末をおもってのものである。しかし私はこの本が,批判も含めて多くの議論の的となることを望んでいる。また,私自身が,今後に経験し学ぶことによって,自分の生み出した本書と対決することになるとしても,それを厭おうとは思わない。このような議論や対決の中でも,臨床家がそれぞれの人格障害の治療モデルを作り上げる上で,本書が幾ばくかでも貢献できるならば,筆者としてそれに勝る喜びはない。
 ……(後略)

2002年5月 林 直樹

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