「訳者あとがき」より

 本書はJeffrey T. MitchellとGeorge S. Everly, Jr.が著した「Critical Incident Stress Debriefing: An Operational Manual for CISD, Defusing and Other Group Crisis Intervention Services. 3rd Edition」(Chevron社,2001年)の全訳である。

 現代社会に生きる私たちにとって,深いこころの傷を受ける事態が生じることはけっして他人事ではない。たとえば,自然災害,犯罪,交通事故,飛行機事故,テロなどが現実に起きている。わが国でも阪神淡路大震災,地下鉄サリン事件などはまだ記憶に新しい。これほどの緊急事態でなくても,地域を震撼させる事件がまったくない日が続くことはめずらしい。そのために,この種の緊急事態を経験した人々に対するメンタルヘルスに対してわが国でも社会的な関心が高まってきた。
 さて,それでは被害者(被災者)の救援に当たる人々のメンタルヘルスについてはどうかというと,残念ながら,専門家の間でさえまだ十分な関心が高まっていないというのが現状である。たとえば,救急隊員,消防士,警察官,自衛官,看護スタッフ,医師などが日常生活のストレスをはるかに超えた現場で活動することを私達は当然のこととして期待しているのに,彼らのメンタルヘルスをどのようにして保つかという点についてはほとんど関心が払われてこなかったというのが現状である。この点について根本的な対策が立てられていないと,バーンアウトを早めてしまい,貴重な知識と経験のある人が職場から離れていくことにもなりかねない。また,長期的に見て,心身の健康を損なう事態も招いてしまう。
 消防士,警察官,医療スタッフなどは,仕事に就いて3カ月以内に,一般の人が人生で経験するほとんどすべての悲惨な出来事を目撃してしまうとさえ言われている。しかし,「そんな経験を自分の力でで乗り越えてこそ,プロだ」「そのような事態に耐えられるようになるには,経験を積むしかない」といった風潮がわが国ではまだまだ強い。
 たとえば,患者が自殺する現場を偶然目撃してしまった看護婦が,何ら心理的サポートも与えられずに,単に事故報告書を書かされたという例を訳者は個人的に知っている。そして,その看護婦は自責感にかられ,看護婦としての能力に自信を失い,しばらくして病院を去っていった。このような事態に何ら手を打たずに放置されていることが,わが国ではあまりにも多く起きている。

 近年,職業上のストレスやPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療に画期的な進歩が見られたため,その予防に多大な関心が払われるようになってきた。緊急事態ストレスマネジメント(Critical Incident Stress Management: CISM)は,主として緊急要員の機能低下をもたらし,障害をきたしかねないストレスやPTSDの悪影響を和らげ,その発生を予防することをとくに目的としている。本書は世界中で最も広く活用されている危機介入システムであるCISMを理解するためのマニュアルであり,CISMモデルを構成する各種の危機介入技法を段階的に示している。すなわち,危機前準備,ディモビリゼーション(demobilization),危機管理ブリーフィング(Crisis Management Briefing: CMB),ディフュージング(defusing),緊急事態ストレスディブリーフィング(Critical Incident Stress Debriefing: CISD),フォローアップなどについて詳しく解説している。
 なお,ディブリーフィングは他の研究者や臨床家によっても使われている用語であるが,しばしばあまりにも曖昧に使用されているので,本書の著者らはCISDという術語を用いている。そして,本書では,CISDこそが真のディブリーフィングという点を強調するために,ディブリーフィングとCISDをまったく同じ意味で,あえて両者を区別せずに用いていることがある点を,訳者の立場から注意を喚起しておきたい。
 米国では過去四半世紀にわたってCISMの活動が盛んになってきた。問題が生じたならば,それに直視して,解決手段はないかという点を探るところにいかにも米国ならではの活力を感じる。本書で取り扱っているCISMは本質的には,日常生活で遭遇するような事態をはるかに超えた緊急事態の中で救援活動に当たっている人々のこころの健康を保つためのグループを対象とした総合的な危機介入技法である。自然災害,大事故,テロなどといった緊急事態において,被災者や被害者の救援に当たる人々のこころの傷が広がることをいかに予防するかというのがCISMの本質である。

 2001年9月11日に米国で同時多発テロが発生したことはまだ記憶に新しい。たとえば,この事件が起きた時に,被害者やその家族に対して,メンタルヘルスの観点から直ちに援助の手が差し伸べられたことはよく知られている。さて,それと同時に,救援活動に当たっている多くの人々(消防士,警察官,兵士,救急スタッフなど)に対しても,こころの健康を保つ活動が行われたことを知っている日本人はどれくらいいるだろうか。緊急要員も人間である。たとえ,これまでにも多くの緊急事態を経験していたからといって,生身の人間である。適切な援助が差し伸べられないと,バーンアウトしてしまう危険はむしろ一般人以上に高い可能性もある。
 これらの人々にストレスがもたらす悪影響を可能なかぎり予防しようとする試みが全体としてCISMと呼ばれているのだ。CISMはさまざまな状況に適応するように多くの技法からなる。また,これらの技法は本質的にはグループを対象とした危機介入技法であり,精神療法とは一線を画し,また,精神療法の代用品にはならない点についても,本書の筆者達は繰り返し警告を発している。緊急事態の大きさ,発生からの経過時間,事態に巻き込まれた人々の数など,各状況に応じて臨機応変に,適切な技法を用いることが肝心である。

 本書の第1版は1993年に出版されている。そして,1997年には第2版が,1999年には第2版の改訂版が,2000年には第3版である本書が出版された。このように1990年代という激動の時代にわたって,本書が改訂を繰り返してきたのは,グループに対する危機介入活動が非常に大きな展開を見せたことと無関係ではない。とくに,CISM活動が20世紀の最後の十年間に大きな発展を遂げている点を反映している。本書は,複雑なCISMのそれぞれのグループ介入法を実施するうえで必要とされる基本的知識,さらに上級の知識,要求される各種の技法を詳しく取り上げている。さまざまな状況でCISMを実施する者にとってもっとも重要かつ有用な本のひとつである。
 著者のJeffrey T. Mitchell博士はメリーランド大学救急医学部の臨床教授であり,国際緊急事態ストレス協会の創設者の一人でもある。また,現在,メリーランド州エミッツバーグにおいて,連邦緊急事態管理庁緊急管理研究所の非常勤教授の職責も担っている。これまでに危機介入,災害心理学,危機管理ストレスマネジメントの領域において,200編以上の論文と7冊の著書がある。
 共著者のGeorge S. Everly, Jr.博士は,Mitchell博士とともに国際緊急事態ストレス協会の創設者の一人でもあり,心身医学会および米国ストレス学会の評議員である。10冊の本と100編以上の学術論文がある。著書の中には,Psychotraumatology (Plenum, 1995)やCritical Incident Stress Management (Chevron, 1999)が含まれる。災害精神保健の分野で米国赤十字社による訓練を受けた最初の臨床心理士のひとりでもある。その経験に基づき,多大な努力を払ってメリーランド州心理学会と米国赤十字社メリーランド州支部のために災害精神保健に関するネットワークを築き上げてきた。また,ハーバード大学医学部やジョンズ・ホプキンス大学においても教鞭を取っている。

 日常的に緊急事態の救援活動に従事している人のメンタルヘルスに関心のあるすべての人々に本書を一読することを奨めたい。なお,本書を読んだうえで,読者が関与している現場において,本書の指摘のうちのどの点が実際に活用可能か深く検討する必要があるだろう。著者ら自身も指摘しているように,どの文化にもすべてそのまま適応できるCISM技法などあり得ず,一口に緊急事態と言っても,文化に適合した形で,その事態に臨機応変に対処していかなければならないのだ。
……(後略)

2002年8月 高橋祥友