新しい進展のために

新福尚武

 精神療法は,一般にはまだ十分に自覚されていないようであるが,徐々に確実に新しい段階に踏み込みつつある。少なくとも実際の治療で悪戦苦闘しながら,あるべき人間のありかたを模索追及している者にとっては,そのようなものの到来が示唆されているように思われる。そしてその発信源こそ,苦悩苦闘している患者,クライエントの呻きにほかならない。
 実は200にも達するといわれる莫大な数の心理療法が,それぞれ独自の理論と技法を提出し,固有の権威を誇示しているそのことが,考えようによってはまことに前近代的なあり方なのであるが,それを内側から揺り動かし破ろうとしているのが生きた人間のうごめきそのものだと思う。本書収載の諸論文にもそのことを示唆するものが若干認められるが,これまでにこのようなことについての基本的直感をもっと整理して,その上に理論や方法の特色を明らかにしておくべきであったのだが,どういうわけかそれがあまりになおざりにされてきた感が強い。
 さて,人間性や人生論については宗教,倫理学,哲学の類が多くを語るが,それらとは別の立場から,苦悩している人間と深くかかわりながら,その本質を明らかにしていこうとするのが精神療法である。だからスタートは個別的・経験的なものにならざるを得ないが,それにとどまるかぎり旧い枠を超えられないので,もっと普遍的,本質的なものを追求するようになり,その結果宗教や哲学とは違った立場から独自に人間の在り方,生き方を問わざるを得ないものになっているわけである。精神療法家の大部分が,治療の目標,意義を症状の単なる除去よりは,「より本物の自分に成ること」だとしているのは,もっと注目してよいことだと確信する。「より本物」とか,「より本来的」とかいう言葉にはまたむつかしい問題が付随してくるが,それはむしろ歓迎すべきことで,それこそ発展の推進役となるのではなかろうか。
 この問題に関連して,ここではっきりさせておく必要のあるのが,「適応」ということについてである。これまでのところ,「適応的である」,「適応性がある」ことが無批判的に健康の本質のようにされてきたが,これについては検討の余地が大いにある。適応では外からの要求に応えることに主点がおかれ,その外とは多くの場合,社会環境,人間関係,風俗習慣などである。たしかにこのことは人間生活にとってきわめて重要であるが,どこでもいつでも,そうだとは言いきれない。まして,精神的問題の多くはこの外的なものへのとらわれから生じがちであることを考慮すると,適応至上主義には大いに批判的でありたい。外の要求よりは内の要求に素直であることがどんなに重要であるかは少し症例について,人間性について研究したものなら,容易に理解できよう。旧来の精神療法の行きづまりのひとつは,この内なる自分についての研究不足,理解不足にあったように思われる。
 ところが,「内なる自分」などというと,すぐそれを良心と同一視したり,権力欲や性欲の塊としがちであるが,それら一切を含めて,もっと洗練されたものにしないかぎり,新しい進展は望めないだろうというのが,われわれの見解である。ではその場合,新しいパラダイムを示唆するのは何かと問えば,それはただの患者の苦悩でも,また,ただの治療者のアイディアでもなく,概括的に言えば,双方の深い交流作用の産物として治療の場におのずから出現してくるもの,治療者をも患者をも超えたおのずからなるものと答えるほかないのではなかろうか。
 だから,それは,機械的な心理学的メカニズムや法則などによる説明になじまないもの,自由でより個性的創造的なもののようである。
 なお,精神療法とは身体療法に対立するもので,二元論的立場を不可避とするものというのが古くからの伝統であるが,この立場もまた超えなければならないのでないか。経験的身心二元論から経験的身心一元論へと転じ,そこから全体的な人間を取扱うのが将来の治療課題となるのでないか。われわれは,脳とかかわらない人間を取扱う精神療法など考えることはできないが,また精神のかかわらない脳の精神療法など思考不可能である。本当の精神療法とは脳心一如的な人間の在り方,生き方を求めるもので,それは何と呼ぶのがよいか,迷わざるをえない。

 ともかく,本書に登場する38人の療法家とともに,真剣に問題に取組み,いっそう理解を深めて,新しい活路を見出さなければならないが,それには枝葉でなく根幹をしっかり捉え,そこから新しい生命を導き出すことが必要で,そのためにもっともっと患者から学ぶことを努めようではないか。

(2003年春 前書にかえて)