訳者あとがき

 本書はDavid Taylor and Carole Paton (eds.): Case Studies in Psychopharmaco-logy: The use of drugs in psychiatry, 2nd edition. Martin Dunitz, London, 2002の翻訳である。薬物動態学,薬力学,処方上の難点を網羅し,具体的な症例に即して最新の精神科薬物療法の実際を示した堅実な良書と思う。類書は少なく,日本の精神科薬物療法の問題点の自覚と改善に役立つと考え訳出した。原著者が全員薬剤師であることも瞠目すべきである。縄張意識の強いわが国では,薬剤師はあくまで調剤屋だとうそぶく医師がまだ散見される。しかし本書では臨床薬理の最先端から社会心理的因子まで漏らさずとりあげられており,見立ての上で訳者に異論はなくはないが(殊に「うつ病」の捉え方),薬物療法については蒙を啓かれるばかりであった。
 卒後教育に携わる方々は,試みに本書の質疑応答から問の一,二を研修医にされてみるとよい。彼我の問題意識の差,卒後研修の懸隔はすぐ判明する。指導医でも不明にして知らない内容も多い(例えば妊産婦に対するリチウム投与や,授乳と向精神薬の関係。いかに碌な知識のないままその場凌ぎの助言をしてきたか反省せざるを得まい。訳者自身そうであったことを白状する)。日本で精神科専門医制度が日の目を見る暁にも大いに参考になろう。
 海外の薬物療法の良書でいつも問題になるのは,諸外国で繁用される良薬で一向に日本で認可されないものが少なくない一方,日本で常用される薬物で他の先進国で認可されないものの多いことだろう。だが,どう見ても非は日本の精神科薬物療法にある(多剤併用,絨毯爆撃的対症療法,薬物動態学的配慮の欠如)。「外国の本が役に立たない」のではなく「他の先進国から隔絶した問題を日本が抱えている」ことをご認識戴きたい註)。
 ‘Evidence-based medicine’を論文や学会で熱心に説く癖に,臨床では,西欧の精神科医が言葉を失うような処方を平然と行なう医師がある。そうした方は,本書をみて「そう理屈通りにいかない」「英国でも本当はもっと多剤併用だろう」と言うだろうが,本書はくどいほどのevidenceに支えられており,訳者の瞥見した限り,英国を代表する精神科研修機関であるMaudsley病院では,驚くほどの単剤少量投与が現実に行なわれていた。他方日本では,多剤大量投与が教育病院でさえ横行している(こうしたことは決して公言されない)。EBMを本気で信奉するのなら現在の日本の薬物療法は早急に改めるべきであり,「日本流処方には臨床的・経験的価値がある」とすれば,EBMを空念仏の如くふりかざすのは止めたほうがよかろう。
 訳語に関して。Depressionは時に「うつ状態」,時に「うつ病」と訳した。状態像と操作的診断単位との同一視から来る惨状は心ある方ならご承知であろうから,訳語の別も諒とされると信じる。訳出時点で日本未認可の薬物はアルファベットで,承認済の薬はカタカナで表記してある。また,日本精神神経学会はschizophreniaの訳語の変更を勧告したが,本訳業がその前に完了したこともあり,従来の訳語とした。なお紙数の関係上,日本の現状に関連の薄い章(clozapineの副作用や,ヘロイン中毒のメサドン置換など)は割愛した。
 本書の訳出を勧められたのは,精神療法の師・神田橋條治先生(伊敷病院)であった。先生ご自身Maudsley病院に学ばれた縁があるにせよ(編者は同院の薬剤師である),コトバの端々からbenzodiazepineの副作用まで,臨床のあらゆる面に目を配り工夫を絶やさない先生の治療者魂を感じる。……(後略)

2003年春 佐藤裕史