あとがき

……(前略)……
 第Ⅰ部は,いわゆる人格障害をテーマにした諸論文で,そのほとんどが講演を土台にしたものである。境界例は1980年代以来の私の中心テーマであったが,最近10年間は診療する機会がめっきり減って,私自身の関心も薄らいでいた。精神医学界全体を見渡してみても,その注目は自己愛性人格や多重人格へ移りつつあったように見える。そういう趨勢のなかで,私なりに一応のまとめをつけるつもりで書いたのが,第5章である。しかし,そこでも言及したことだが,境界例概念もなかなかしぶとくて,10年に一度くらいの頻度でさまざまな精神医学雑誌の特集テーマとして復活してくるのである。2003年には『精神療法』誌で2号にわたって,「境界性人格障害治療の現在」と銘打った特集が組まれた。私にとって興味深かったのは,その特集のなかで最近のわが国の境界例研究者たちがこぞって紹介しているup to dateの治療論が,本章で私が述べた古風な境界例治療観と奇妙に一致していたことである。Gundersonの「ケースマネージメント」とLinehanの「弁証法的行動療法」というきわめて現実志向的な治療論がそれであって,さまざまな職種のスタッフによる多様な治療法を組み合わせるなかで精神科医による個人精神療法は決して中核的役割を占めることができず,治療の要点は,患者に何らかの理解や洞察を得させたり心の中に浮かぶイメージを患者と一致させようと努めたりすることではなくて,彼らの言葉の使い方や意味の把握や基本的な振舞い方がわれわれのそれと一致するように訓練することにあるという。要するに,患者の日常生活能力を最初から低く見積もって,日常の具体的場面で規則や技能への従い方がわれわれのそれと同型になるように手取り足取り学習させるという,きわめて常識的な治療法なのである。

 第Ⅰ部の残りの論文は,主に多重人格とPTSDなど退行指向型の人格障害について論じたものである。『人格障害とは何か』という本を2001年に上梓したせいか,その後あちこちから講演やシンポジストの依頼が私に舞い込んできた。これら四つの論文は比較的短期間に集中して,前の講演では言い足りなかった論点を次々と補うように書かれているので,通読することによって人格障害の全体像が,概念・分類・歴史・症状・治療の問題などを含めて立体的に理解されることと思う。多重人格は,第1章と第4章において固有名や時間や物語との関係といった角度から多面的に論じられているが,そもそも多重人格について考えるきっかけを私に作って下さったのは,後述するように中安信夫先生であった。

 第Ⅱ部では,症候学的には確定診断が難しいような統合失調症の症例を提示して,彼らの人格的側面に焦点を当てながら「自己」「同一性」「境界」「動機」「初期」「書字表現」といった諸概念に考察を加えている。第7章と第8章で取り上げた症例は,私以外に私の同僚たちが主治医になっていた期間があるので,前者は鈴木時彦・永山建次両氏との,後者は鈴木保武・平野千晶・新居昭紀・永山建次氏との共著になっている。後者の論文は,聖隷三方原病院で15年以上にわたって続いている症例検討会での発表をもとにして『精神科治療学』に掲載された10編ほどの論文の中から選んだ1編である。常時10人程度が参加して行なわれている症例検討会だが,スタッフの転勤などによる入れ替わりも少なくないので,参加者の総勢はかなりの数に上るだろう。精神病理学は一人で考えることも大切だが,対話の中からヒントが得られることも少なくない。患者との対話のみならず仲間との意見交換による刺激が貴重なのである。その意味で,一々の名前は挙げられないが,症例検討会への参加者たちに対して,この機会を借りて謝意を表しておきたい。

 第Ⅲ部は,他の著者たちに関して論じた小論文を集めたものである。私は,精神病理学における自分の仕事の指針を,木村敏,中井久夫,安永浩の三先生からもっとも多く教えていただいたと思っている。私が直接身近に教えを受けたのは木村敏先生と中井久夫先生だが,書かれたものを通じて安永先生から受けた影響も決して少なくはない。尊敬する3人の先達のお仕事に関する解説や書評を書くことができて,少しはご恩返しができたかと喜んでいる次第なので,この再録が先生方の著作集をもっと多くの人々に親しんでいただくための一助になるならば幸いである。
 第14章と第15章は,最近の若い精神科医たちが,各分野の基礎的な文献を踏まえずに論文を書くことを危惧した中安信夫先生の編集になる『精神科臨床のための必読100文献』に寄せた解説文である。どういうわけか中安先生は,私にJaspersの『精神病理学原論』とPrinceの『人格の解離』の解説を担当するように依頼してこられた。前者はともかくとして,当時の私は多重人格などに関心はなかったから,後者の書物の存在すら知らなかった。それなのに氏がどうして私にこれを割り当てられたのか,今もってその理由はわからない。とにかく読みにくい大部の書物であったが,この解説文を書くために『人格の解離』の訳本を読んだことが,その後私が多重人格問題に足を踏み入れる第一歩となった。そうしてみると,氏はたんに独創的な分裂病研究者というにとどまらず,先見の明をもった(人をのせる才のある?)すぐれた教育者なのかもしれない。第16章は,私には珍しいことに病跡学に属する論文である。ドストエフスキー文学では登場人物のみならず,作者や文体にまで「人格障害」の問題が浸透していることを考察したもので,第4章の内容の一部を先取りしたものになっている。振り返って考えると,私は若い時分からドストエフスキーを,文学者というよりも第一級の精神病理学者とみなして親しんできたように思う。人格にはさまざまなあり方と多様な見方が可能であること,またそういう目をもつ精神科医は決して善人たりえないことを,私は彼から学んだのである。

 第Ⅰ部と第Ⅱ部,および第Ⅱ部と第Ⅲ部の間には,短いエッセイが二つずつ「口直し」のように挟められている。このような短文の方が,本格的な論文よりもかえって書き手の人格を端的に表現してしまうことがあるのでこわいのだが,前述のように「人格の精神病理」を考えるための素材は,患者との間にばかりでなく至る所に見出せることの具体例でもある。「あとがき」のこの文章にしたところで,私の人格の迂闊な表現以外の何ものでもないことは言うまでもない。これらの小品にはまた,私が総合病院に勤めるようになって以降のリエゾン精神医学の経験が反映していることだろう。
 精神科医としての私の方法は,客観的立場からみるなら雑多な方法の混在に映るかもしれない。しかし,主観的立場からみると,次のような形で一貫している,と私は思っている。個々の患者との治療関係を理解するための枠組みとして(精神医学関係以外の)読書や身の回りの人間関係に関する実体験から得た知識をもってし,逆に書物や身近な人々と自分との関係を理解する手立てとして具体的な患者との治療関係から学んた知識を参照する。本や人間関係と私との間に患者を,患者と私との間に書物や知人との関係を介在させるわけで,この往復運動が双方に対する私自身の理解を深めると同時に,私が自明なものとして無意識のうちに立脚していた観点を相対化し,自覚してゆくきっかけを与えてくれる。対象関係や集団力動という観点からみるなら,知人や作家たちと私との関係は医療スタッフや患者と私との関係と同格であって,選ぶところはないのである。

 精神科医が今日書くものには,「患者さんの味方」といった善人ぶったポーズをとって万人受けを狙ったものが多すぎるように思う。他方で,実証科学へのコンプレックスも手伝ってか,いたずらに客観性を装って「書き手責任」を回避するかのような血の通わない記述も少なくない。精神病理学的思考は,今日そのような精神科医たちの論調によって,どんどん「ゆるく」なっている。本書において私は,そういう書き方を極力避けたつもりである。私は,主張において誤ったり言い過ぎたりすることよりも,文章と内容の「ゆるさや言い足りなさ」に甘えることを恐れたい。また問題の安易な解決を提供するのではなくて,問題の所在とその基盤を明らかにすることに努めたい。読者に既成の知識を伝えることよりも,読者を刺激して読者自身の考えの展開を促すように求めたいのである。本書が果たして実際にそのとおりなっているか否かは,読者の判断に委ねるほかないだろう。
……(後略)……

2003年 鈴木 茂