「まえがき」より

 私たちはみな存在することを願っている,とビオンはあるセミナーで言った。生命は,物質に働きかける傾向性であるとベルクソンは言った。人類は猿人から進化し,猿人は猿から,猿は哺乳類の一枝脈から,哺乳類は爬虫類から,等々。進化は,エラン・ヴィタールがその旅のなかで辿ってきた足跡をしるしている。人類が創造の打ち止めではない。エラン・ヴィタールはまだ活動中である。今その道筋を記述したとき,生命そのものについては説明していない。進化の道筋が今あるような形をとっているのは,因果的連鎖によっているが,その連鎖は,生命そのものについて語ってはくれない。生命は突き進むが,どこに向かうのか私たちは知らない。
 ビオンの考えを探索するとき,彼の探究様式に忠実でありたい。だから,彼について私たちが考える様式は,因果の線に従わないだろう。私たちが掴もうと望むのは,考えそのものであって,彼がその考えに到達するまでの道筋ではない。生命そのものを見ることはできないが,生命の現れは見ることができる。ある人が馬から落ちて,馬がその上に転倒した。男はピクリともせず地面に横たわっていた。人がまわりに集ってきて,もう死んでると言ったが,彼はやっとのことで小指を立てることができた。それは,見ている人々に彼が生きていることを伝えるために十分な大きさの印だった。立った小指は生命の現れだったが,生命そのものではない。
 そこで私たちは,主題ごとに取り上げていく方法を取る。そのそれぞれがビオンの思考の現れであるが,物自体ではない。それぞれの現れは,因果的ではなく相互に依存するという形で別のものと結びつきを持っている。私たちができるのは,全力で物事を説明すること,そして不要なものをできる限り拭い去ること,もっとも決定的と思われる現れを指し示すことだが,思考そのもの,つまり生命の表現を掴むことができるのは,あなた方読者だけである。
 この方法は,ビオンにとって中心的なものに忠実だと私たちは信じる。ビオンの関心は心の生命そのものを把握することにあったのだから。これは,病理的な過程に焦点を当てて,心自身の生命から注意をそらすような分析学派の思想と対照的である。
 ビオンの発想の時系列的発展を辿るよりも,こちらの方を私たちは選択した。前者をしようとすれば,学術的精査を要するであろうが,その時間も能力も私たちにはない。私たちが本書で想定しているのは,専門家よりも,ビオンの考えの主な輪郭を理解したいと考える教養ある読者である。しかしこのアプローチが,臨床家たちにも実践的援助となることを望みたい。本書は,すべての関心をビオンの臨床理論の詳細を理解することに注いでいる点で,ブリンドヌ(1994)のものと異なっている。ブリンドヌの本は伝記的で,ビオンの認識論を哲学的文脈の中に位置づけている。私たちは,ビオンの概念を臨床実践との関係で理解することに集中した。私たちの本はとりわけ,ビオンの考えを自ら自身の患者との仕事に適用できないかと考える臨床家のためのものである。ビオンを真剣に学ぼうとする者は,どちらの本も読む必要がある。両者は互いに補い合っている。本書があれば一生懸命考えなくてもよいというわけではない。
 ビオンの眼を通してみた精神分析は,彼に先立つあらゆる概念構成から離れるラディカルな旅立ちである。彼が精神分析におけるもっとも深い思想家であると言うことに私たちは少しのためらいもない。そしてフロイトもこの言葉から除外されていない。もし読者がまったくショックを覚えないとすれば,今まで理解したことのすべてが今や危機に瀕していると気づいて面食らわないとすれば,もう一度はじめからやりなおさねばならないと気づいて恐怖で息が止まらないとすれば,私たちは課題の遂行にみじめに失敗したのであって,本書は失敗作ということになろう。