「監訳者あとがき」より

 本書は,1984年初版“Psychodrama : experience and process”の全訳である。その出版から20年が経過しようとしている現在,著者のイレーン・ゴールドマン女史は今年83歳になられた。私が初めて著者にお会いしたのが,大学院在学中の1983年2月,本書の舞台になっているアリゾナ州フェニックスにあるキャメルバック病院でサイコドラマ研修を受けた時であった。当時,キャメルバック病院の研修では,週に2回のサイコドラマ・セッションに加えて,他の集団精神療法の実習におよそ4週間にわたって参加させてもらった。その間,イレーンの監督するセッションと共著者であるデルシーの監督するセッションの両方に出ることができた。デルシーが監督をする時には,イレーンは一緒に参加しながらスーパーバイザーの役割を取っていた。今思えば,あの時のセッションや直後のレビューにおいて提示された「らせん」の図が,そのまま,一冊の本となって結実したということになる。当時の具体的内容に関してはさすがに記憶に薄くはなっているものの,セッションのあの迫力だけは,今でも私の脳裏に焼きついて離れない。どういうわけか当時を思い出そうとすると不思議にあの体験の衝撃が蘇ってドキドキしてしまう。セッションの雰囲気そのものが,私の今の臨床に影響を与え続けていると言えよう。その後,1987年10月,イレーンは,日本で「国際集団精神療法学会環太平洋地域会議」が開催された折りに来日して,そこで半日のワークショップを行った。もしかしたら読者の中には,その時のセッションを直接体験した人もいるであろう。そして,その機会に彼女から本書の原本を直接受け取ったのである。
 ところで,本書はいわゆる「らせん理論」の原点になる書である。そして,「古典的サイコドラマ」の理論と実際を学ぶ貴重なガイドブックになる書である。読者は,その事例の豊富さと描写の細かさに圧倒されるであろう。おそらく,主役という個人に焦点を当てて過去にさかのぼり,直面化と統合化をたどるプロセスをこれほどまでに分かりやすく,かつ臨場感あふれる記載をなした本は他では見当たらないのではないだろうか。それは,20年を経た現在においてもその新鮮さを失っていない。私が,この原本を日本語に翻訳したいと切望していた理由の一つには,一にも二にも事例が語るサイコドラマ劇場の神髄を広く臨床の仲間たちに知ってもらいたかったからである。
 「サイコドラマ」は日本語で「心理劇」と訳されるが,日本で言う「心理劇」は必ずしも「サイコドラマ」ではない。それは,アメリカのサイコドラマ監督資格に関わる問題であるが,かの国では,サイコドラマ,ソシオドラマ,そして,ロールトレーニングと分類されており,それぞれオリエンテーションや進め方が異なり,その監督の呼称も,サイコドラマティスト,ソシオドラマティスト,そしてロールトレイナーと言って区別化がなされているからである。すなわち,日本で言う心理劇治療者が3つに区別されているのである。要は,治療か教育か訓練かの相違である。言うまでもなく,これらは,それぞれ目的とするところが異なるのであって決して差別化ではない。その意味では,実際に精神科専門病院の入院患者が本書の主役たちであることを考えれば,本書が,「心理療法」としてのサイコドラマを概観していることは明らかである。
 著者であるイレーン女史のサイコドラマは,先に述べたように,徹底した主役中心志向である。すなわち,主役個人に焦点を当て,その生活史の再構成を図る。そこでは必要な個人史が明かされ,主役の感じる真実のみがドラマストーリーの脚本として取り上げられる。主役以外のすべてのグループメンバーに補助自我となることが期待され,観客も含めて,主役のための協力者となる。そこで重要なのは歴史的事実ではなく,主役の感じる真実の方であり,主役にある「心的現実」世界をサイコドラマで体現していく。まず初めに「ウォームアップ」,そして「ドラマ」,最後に「シェアリング」で1セッションが完結する。ドラマでは,現在から入り,次に近い過去に行き,さらに深い過去に行き,そこで直面化を果たした後に,統合化のプロセスに入る。そして再び現在に帰ってくる。この一連の旅路は,本書の中核理論である「らせん」によって視覚的に理解できる形で再現されている。
 なお,本書に登場する主役のプロセスを見ていく時,直面化において,必ずと言っていいほど扱われた主題が「怒り」であった。この事実は,通常なかなか「怒り」を扱えない,というよりグループでは「怒り」が抑圧され,むしろ「抑うつ」を取り扱うことの多いわが国のグループ文化を考慮する時,興味深い示唆をグループセラピストである私たちに与えている。すなわち,本当は私たちは怒っているのかもしれないという示唆である。そのプロセスは,本論における「らせん」の中心部において勃発する主題であるが,実際に日本では,辺縁レベルで終わっているサイコドラマ・セッションがあまりにも多いと感じるのは,私の思い上がりであろうか。おそらく,怖がっているのは,私たちセラピスト自身なのである。「怒り」を扱わないセラピストはしばしばこう言うだろう。「まだグループがそれを望んでいない」「主役にはまだ早い」「この主役には自我水準から見て危険である」あるいは「日本の国民性がそれを許さない」と。もしこれらの発言が,実はセラピスト側の「怒り」を扱うことへの不安に由来するものだとしたら,まさに他者への転嫁,合理化,そして問題のすり替えが起きているということになろう。そのように考えた時,本書に別の意義を見いだすことができる。すなわち,直面化において,監督がいかに真摯に「怒り」を受け止めていたかという「プロの心構え」を提示しているという点である。著者たちの決して妥協しないその治療的アプローチと監督の揺らがない自信にはただ感服するのみなのである。
 さらに,技術的に注目するべきところは,統合化のプロセスにおける「具象化(concretization)」である。先の直面化としての「怒り」の発散=カタルシスは,決して目的ではなく手段であるということが,この統合化のプロセスを見れば明らかとなる。そこで使用される介入技法としての「具象化」は,現在に帰る道程において不可欠なものとして著者は位置づけている。総じて「サープラス・リアリティ」の技法と呼んで介入しているのだが,それは,実は,監督の演出力が最も試されるところであり,同時に多くのサイコドラマティストが最も苦労するところなのである。果たして女史は,セッションの中で見事に統合化を果たし主役の「現在」に返していた。サイコドラマの目的はやはり主役という個人の統合にあるということを改めて私たちに示しており,そこでは,単なる怒りの発散では決して終わっていないという事実に読者は注目してほしい。
 さて,本書の読み方であるが,あえて第3章「シェアリング」から入るというやり方がある。まず豊富かつ鮮明な事例に触れてから,第1章「ウォームアップ」での基礎的な考え方,次に第2章「アクション」におけるらせん理論の概観を学ぶ。そして,テクニックを学ぶ時にはその都度,再び第3章の事例に返ってみてはいかがであろうか。すなわち,具体的事例との繋がりを常に意識しながら読み進んでいくことを勧めたい。
……(中略)……
本書がわが国の心理劇の発展に寄与することができ,また,本書を通して,読者に,個人焦点型のサイコドラマへの関心を少しでも喚起することができたとすれば,翻訳者の一人としてこれにまさる喜びはない。

2003年11月 高良 聖