「まえがき」より

 本書では,今までに書いたもののうちライフサイクルに関するものを集めた。書いた時期はそれぞれ違っているが,あらためて通読して,長い期間をかけていろいろやってきて,結局基本的なところはほとんど変っていない印象をうけた。自分では多少幅も広げ奥も深めたつもりでいて,つまりは十年一日のごとく同じテーマの周りをへめぐっていただけなのかと,いささか複雑な思いである。一言で言えば,「平凡であるのが一番よいんですね」という,平凡ならざる人生を生きてきたあるクライエントのことば以上のことが言えていない。カウンセラーとして長年やってきて,ライフサイクルのそのつどの時点に立つクライエントの話を聞き,何とかもう少し分りたいと思い,私なりに考えこんできたつもりの結果がこれなのである。意外なこと,というより当然のこととして,クライエント理解よりも,カウンセラーとしての私自身の理解に役立つことの方が多かった。
 第1章は本書のために書き下した。はじめの扉の所でも触れてあるように,心理臨床家のアイデンティティを確かめようとする時,「心とは何か」の問題を避けて通ることはできない。しかし意外なことに,今までこの問題は少なくとも心理臨床家が納得するような形で論じられることがほとんどなかった。かつオーソドックスな心理学者の中には,現在でも臨床心理学を学問と見なすことをためらう傾向がある。実践には主観的体験を通して普遍にいたる方向性があるからである。その点われわれの仕事は,哲学者や宗教学者,芸術家たちと近いところがある。そうしたことを踏まえ,本章が,心理臨床家が心をどう考えるべきかを論ずる際の叩き台になってくれればという思いがある。
 第2章は男の子の思春期について書いた。以前からこの時期は,いろんな意味で変動の時期であることが論じられてきた。その中で,とくに第二の自我の目覚めの時期であることを,絶対的な世界との一体感に亀裂が入り,今まで自明であった世界がその他者性を露わにする時期であるとして,私自身の経験に基づいて論じた。そこにいくらかの病理性の含まれていることを,やや文学的に述べたものである。
 第3章は第2章を受けて青年期の問題が扱われている。バブル期に新人類,永遠の少年,モラトリアム人間など,さまざまな名前で呼ばれる新しい青年群が現れた。彼らは高度産業社会体制に対する鋭いアンチテーゼとして出現した。その限り,世界中の大学生を巻きこんだ,“怒れる若者たち”の運動と連動している。したがってその最初の現れはステューデントアパシイという大学生の新しい病理的現象であった。やがて若者たちの運動が“おとな”たちによって鎮圧されるのと平行して,一般の青年たちの間に拡散し,当初のきらめくような美しさを失っていった。そしてそのグロテスクな幼児性を,ひきこもりや摂食障害の形で露呈している。そうした現時点での青年像を理解するためにも,永遠の少年たちの心性理解は不可欠と思われる。
 第4章は性の問題である。今日の性教育に最も欠けている愛を扱っている。ある意味で性の人間化=日常化が進み,そのタブー性が失われつつある。そして愛することのできなくなった人たちが,それこそプラトンのいう失った半身を求めて彷徨している。言いしれないその空しさは,単なる欲求充足で埋めきることができない。それは性の動物的側面に目を据えながら,宗教的ともいえるその超越的側面を,限りあるおのれの中にとりこむことによってしか果さない。献身とそれと不可分の恩寵のごときものを甦らさなければならないのである。
 第5章が,中年である。この時期,いやおうなしに死の問題が垣間見えてくる。それにどう対応するか。小此木の上昇停止症候群ということばが思い出される。ガンを発見されいやおうなしに死に直面し生還した人たちが,それまでの馬車馬のように働く猛烈社員(これもバブル期にはやった今は懐しいことばである)から,自分のための人生を考えはじめる,そのためひたすら出世を目ざすことをしなくなる,現象である。はからずもユングのいう中年の転機と重なっている。それらを示すいくつかの事例を挙げてある。
 第6章は第5章の裏。男たちの中年に対する妻の中年である。妻たちが夫や子どものため自らの“自己実現”を諦めたように,いわゆるキャリアウーマンが,結婚もせず子どもも生まずひょっとしたら女としての可能性を生き損ったのか,と嘆く話である。男女を問わず,一つの可能性を生きるためにはもう一面の可能性を捨てなければならぬことが多い。中年女性の性の嘆きは,女性ならではのものを含みながら,実は人間誰しもがこの時期にさしかかって,生かすことのなかった可能性を顧みて,しかしそれによって生きてきた自らの可能性を確かめるために必要なものなのかもしれない。
 第7章が老年である。いやおうなしに死が見えてくる。しかしそれよりも切実なことは,まず身体的な苦痛と社会的経済的な保証の失われることである。それが産業資本主義社会の影の部分であると恨んでみても始まらない。悟りすました老人たちも少なくないけれども,その多くは稀有なほどに恵まれた人たちである。その人たちでも最晩年のありようは,その人たちがまだ少しは元気であった“若い”頃に思い描いていた状況からは程遠いのではないか。それでも世界一の長寿国の日本の老人たちは生きなければならない。同時に,死を見据えてこそ生きてある喜びの感じられることもある。自ら老境を迎え,多くの老人と親しく触れあうにつけ思うこと,が述べてある。
 第8章は少し趣きが変って,ユングの発達心理学のごときものを論じた。本書がライフサイクルをうんぬんしながら,乳幼児期,児童期,壮年期などが脱けているので,多少ともそれを補う意味がある。大分以前に書いたものであるが,ユング心理学についての比較的コンパクトな紹介としても,なお今日的意味が残っていると思いたい。
 第2部は約20年かけて高校生向けに連載したものの後半部分である。はからずも現代青年論になっている。そのつど現代と思いつつ,ここにとり上げた分だけでも10年のタイムスパンがある。それでいてあえて“現代”と言うことにそれ程の違和感がない。本書の議論がやはり長い時間をかけてのものでありながら,私なりには首尾一貫している(それだけ変りばえしない?)と思っているのと似ている。時代の流れと裏腹に,底には変らぬものがあるのかもしれない。
 以上,長くなったがこれをもってまえがきに代える。
……(後略)……

平成15年12月27日 氏原 寛