「あとがき」より

 私はこの春に定年を迎える。本書は,それを記念して過去5年ばかりの論文を集めたものである。
 第Ⅰ部は精神療法に関する論文である。DSM-Ⅲが世に出て以来,精神医学における精神療法の重みが急速に落ちているという実感は精神療法家が等しく共有しているといってよい。そもそも精神療法は,精神分析であろうと森田療法であろうと,神経症の治療法として編み出されたものであるが,それは神経症が心因性の疾患であるという前提があったからである。ところが,もっとも心因性と考えられた不安神経症が必ずしも心理的次元だけの過程だけではないという見方と実践(薬物療法)が台頭してくると精神療法のもつ存在意義が急速に薄れてきたのである。現代の疾病論に合うのは認知行動療法ぐらいであるといっても過言ではない。その状況でこれまでのような精神分析だけ,森田療法だけを進めていたのでは知らないうちに自らを精神医学の辺縁に追いやってしまうことになりかねない。多くの精神分析家が心理臨床に走る現状は,こうした状況を反映しているといえる。
 そうした状況で精神医学の中に踏み止まりながら到達した境地のひとつは,20世紀の精神療法である精神分析が治療的実践の中で展開してきた人間存在のあり方ないしは新しい人間像である。つまりS・フロイトのエディプス・コンプレックス,K・アーブラハムの対象喪失と喪失不安,M・クラインの妄想分裂態勢などにみられる,人間の心の本質を不安と葛藤に満ちた世界として描き,それを解決することこそが精神療法としてきたが,最近の深刻な問題を持つ人格障害の治療の中では,不安や葛藤の解決以前に人間存在の根本をもう一度問い直す必要があるという視点に到達するまでになっている。D・W・ウィニコットの「本当の自己」,H・コフートの「健康な自己愛」がそうである。そして,先の葛藤中心の世界に対する接近の基本は「解釈」(転移解釈)であったが,新しい人間観では,それぞれホールディングや共感といった言語的交流を越えた人間的触れあいが重視されるようになっている。いわば,神経症では不安や葛藤を処理していけば健康な人格が自然発生的に回復していたが,人格障害の治療では,本当の自己や健康な自己愛の形成を支えなければならなくなったのである。この流れの中で注目すべきは,W・ビオンの「真理本能」である。真理本能論というのは,第49回日本精神分析学会大会(札幌)の特別講演で,J・S・グロートスタインがビオンの思想から抽出した概念で,はなはだ東洋思想的な内容をもったものである。グロートスタインによると,精神分析が非生命体にしか適さない線形化学Linear scienceにその土台をもっているために,心的領域で到達できない部分(例えば,宗教心,神秘的領域など)を形成することになっているため,それを乗り越える目的でビオンは非線形科学を選択して,宗教的神秘的な隠喩を使用するようになった,という。真理という,心のこの領域はむしろ東洋人であるわれわれに親しいものであり,人間存在の根源とされるものである。ビオンの思想のこの側面については,今後,東洋的思想をもつ私たちが臨床の中でさらに咀嚼し直していかねばならないが,どのような姿かたちをしてたち現われてくるか,楽しみである。
 一方,森田療法もまた同じである。森田療法では精神交互作用や思想の矛盾という葛藤や不安を対処目標にして神経症の治療に成功を収めてきたが,戦後の文化的変動の中で,新しい神経質患者が登場するようになって,これまでの技法だけでは如何ともし難い患者たちが多くなった。それなりの創意工夫がなされてきたことも確かであるが,人間存在のあり様の深みまで思考することはなかったように思う。私は,森田療法室での症例検討の中で,精神分析が苦労している治療中の行動化,激しい逆転移現象がここでも同じく出現していることを知るに至った。これまでにない人間理解が必要になっていると感じるようになったのである。そこで,森田の治療論を再検討することになったが,そこで目に入ってきたのが,これまで森田療法家がほとんど注目しなかった「純な心」という概念である。これを検討するうちに,これが「天上天下唯我独尊」,釈尊が生まれたばかりのときに発したこの言葉に通じるのではないかと考えるようになった。それは,日本の童話に出てくる幼き英雄たち(桃太郎,金太郎,かぐや姫など)の心性,さらには土居の甘え概念に通じることに気づくに至った。つまり,かつて神経質は不安や葛藤を解決するべく働きかけていくと,自然発生的に純な心が出現していたが,最近の症例では新たに純な心の形成を支援しなければならなくなったということである。そして,この「純な心」が先述の「本当の自己」,「健康な自己愛」,「真理本能」に通じることも理解するようになった。いわば,精神分析理論の発展をわれわれの故郷の言葉を通じて理解できるような場を与えてくれたことになったのである。
 こうした人間理解に到達すると,精神疾患を,あるいは身体疾患を抱えた人間に対処するには,もっとも線形科学的な認知行動療法だけでは限界があると考えるようになった。換言すれば,医学をして,患者の身体を,精神を線形科学的にしないためにも,こうした方向の精神療法が求められているといえるのである。しかしそれよりももっと大切なことは,こうした本当の自己や真理本能,さらには純な心の形成を支えるには,個人精神療法だけでは非常に限られた成果しか挙げることができないということである。物理的にも人材的にも,あるいは社会的にもある種のシステムが必要である。例えば,個人的接触(薬物と会話)の他に,別仕立てのグループ・ワークや社会療法を併せ利用するなどが必要である。精神医学的治療に変革を求められているのである。
 以上が精神分析療法と森田療法を絡めて精神療法のあり方を思考していく中で私が到達した結論である。汲み取っていただけると有難いと思う。

 第Ⅱ部の思春期の精神疾患の臨床に関してはまだ語っていないことも多い。本書では,摂食障害,境界性人格障害,解離性同一性障害,社会的ひきこもりといった新しい病態について一応の論述を行ったが,私の疾病理解と治療技術にはそれなり進歩があり,それを活字にする暇がないままに過ぎたところがある。そのいくつかを簡単に述べて,補っておきたいと思う。
 ひとつは,境界性人格障害についてである。今や個人精神療法だけでは限界があることはいろいろなところで述べてきたが,ここでは,入院治療のあり方に関して慈恵医大方式といってもよいシステムをほぼ構築したことを挙げておきたい。この種の患者が行動化その他でもって病棟を混乱させることはよく知られている。この状況に対して,これまでの力動的精神療法では「高度の構造化された管理運営」が最良のこととされてきた。治療中断を避けるためには,管理が重要なことは論じるまでもない。ところが,こうした管理的対処では,患者をひどく縛ることになり兼ねない。患者の中で何が起こっているか。一般にこの種の患者が入院してくると,周囲との接触がうまくいかずに,治療中断的に早期の退院をしたがることが起こる。すると,主治医は治療継続を説得するのが普通である。患者からすると,退院したいのに先生が許可しない,治療者が治療をしたがっているといった心理が前面に出てくる。よく考えてみると,治療を受けて治りたい気持ちも,辛いから退院したい気持ちも患者のものであるが,治療を受けたい気持ちは主治医のもので,退院したいのが自分のものという関係が生じているのである。いわば,分裂機制が完成しているといってよい。そこで,両方の気持ちとを患者の中に戻すために,私は退院したいと言うならすぐに退院させ,入院したかったら強制退院の場合でも再度入院させるという方式を奨励するようになった。すると,意外と病棟内での問題が激減し,主治医たちの境界患者に対する拒否的な態度がなくなった。加えて,こうしたことを繰り返していても,特別な場合を除いて,4〜5回も繰り返していると,入院をしないで済むようになった。分裂機制が優位な状態から相反する気持ちを内包するアンビバレンスの状態への回復がみられるのである。こうした治療態度は,何も入院だけではなく,外来治療においても,基本的なものとなっていることは論じるまでもない。高度に構造化された管理運営をしているある病院のスタッフと討論する機会があったが,私たちの患者に対する態度は,この種の患者を前にしたときの一般的な精神科スタッフのそれとはかなり違っているという感触をえたのであった。
 解離性同一性障害については,本書の論文を書いた後,私は催眠法を使用するようになっていることを述べておきたい。具体的な方法については,講演等のさまざまな機会に,症例を示して明らかにしてきたが,大量の抗精神病薬を使用するより,催眠法の方がよほど効果も大きく,危険も少ないように思っている。
 最後は,社会的ひきこもりである。これについては,対人恐怖症,登校拒否,退却神経症,そして社会的引きこもりという,疾病論的にいえば,DSM診断の社会性不安障害から回避性人格障害に至る線上に位置づけることができるが,精神力動的には,自己愛性の障害という幅広い領域のひとつを構成しているといってよいようだ。社会的には,統合失調症やうつ病その他の疾患をも含むものであるが,中核群ともいえる「いわゆるひきこもり」は,境界性障害の見捨てられ抑うつと対照的に,自己愛的傷つきに伴う激しい怒りを基盤にした病態であるだけに,トラウマと関連した症例あり,反社会的行動へと走る症例あり,社会的に潰されて抑うつ的となる症例ありと多様な精神力動を含んだものになっている。おそらく今後,この障害を基盤にした症例がさまざまなかたちをして臨床現場を彩るようになるのではないかと思われる。単なるひきこもりだけではなく,さまざまな精神疾患の基礎人格となったり,あるいは学校で,企業で,そして地域社会で問題になってくることが考えられるだけに,これからの臨床でじっくりと取り組んでいかねばならないと考えている。
……(後略)

平成16年3月 著者識す