刊行を慶ぶ

 荘子天道第十三に,次のような寓話がある。殿様が座敷で本を読んでおられた。庭先で車輪を造っていた職人が訊いた。「その本には何が書いてあるのですか」殿様は答えた「これは昔の聖人の教えじゃ」職人曰く「じゃあ,それは昔の偉い人の考えの粕を読んでおられるのですね」「わたくしが車輪を造るとき,微妙な勘どころは実地で身につけるしかありません。口で説明することはできません。子どもに教えることもできません。昔の聖人もその考えのいわく言いがたい部分を文字にすることはできないはずですから,お殿様が読んでおられるのは,大切な部分を除いた粕の部分なのでしょう」
 溝口さんは実務の人である。長い年月,臨床の現場での工夫と修練を続けてこられた。カウンセラーとしての対話の場の中での自分自身を見つめてこられた。重度のケースも多かったので,転移・逆転移のテーマを見つめざるをえなかった。この種のテーマヘの取り組みはしばしば孤独な作業であり,また確かな結論に到達することは少ない。おおむねは,「認識のようなもの」「台所の知恵」に溢れた自由連想の世界となる。いわく言いがたい部分の氾濫である。そうした溝口さんが頼まれて折々に書いた文章が一冊になった。多少は整理されているのだろうが,自由連想の世界は残っており,ああ考えてはこう自問するという具合で,すっきりした結論に到達することは少ない。「だったら,本なんか出さなきゃいいじゃないか」と正当な反論を連想した人はこの本にもっともふさわしい読者である。車輪を造っている職人は,弟子や同好の士が傍らにいるとき,いや誰もいないときにも,工夫や試行錯誤している最中に独り言ふうに呟くはずである。職人が自らに向けて語る言葉を傍らにいて聞いた人は,いうに言われぬ勘どころの辺りを聞いたのである。
 本書は溝口さんがいくらか聞き手を意識しながら語った自由連想の世界であるから,どの章から読み始めても,そこに職人たる溝口さんがいるので,他の章の「気分と雰囲気」がそこここにほの見えていることがあり,一種の入れ子構造をなしている。だからまず,「あとがき」と「終章」を読み,次いで目次のなかから気になる章を選んで読み進むのが良いだろう。そして,下線を引くのではなく,余白の部分に,同意・反論・連想を書き込みながら読み進むことをお勧めする。職人の傍らにいて独り言を聞きながら心のうちで職人と対話しているイメージである。
 本書はボクにとって格別の歓びがある。三十数年前ロンドンから帰ったとき,ボクはパデル先生とのスーパービジョンでの「崩壊と再建」の体験をわが国の後輩たちに伝えようと決心していた。溝口さんはその体験をポジティヴなものとなし,Littleの「破壊と創造は不二」の信念に到達された。ボクは崩壊と再建を経てパデル先生とは異なる世界,自身の資質を生かす世界を得た。溝口さんは崩壊と再建を経てボクとは異なる自身の資質を生かす世界に到達しようという地点にいる。ボクがもっとも重要と見なしている文化が着実に伝承されているのを目にして,ボクは亡きパデル先生への師恩に報い得た歓びを味わっている。
 本書をお座敷にいる殿様の気分で読まないで欲しい。対話しながら書き込みをしながら読み進んで欲しい。そうすることで読者の幾人かに,ささやかでも崩壊と再建の体験が生ずるなら,溝口さんの歓びはボクと同質のものとなるだろう。反論を沢山書き込んで下さった読者に殊にその期待を掛けてよさそうな,何となくそんな気がする。

神田橋條治