「序文」より

 夢は,寝ている間に体験する出来事である。それらは生きられた経験であり,昼間に体験する生活と同じくリアルなものだが,想像だけで構成されている点が異なる。夢見を生み出す想像には驚嘆する。というのも,それは何分の1秒という短い間に世界を創造するからだ。しかも,1億ドルの予算をかけ,何百人のスタッフを動員し,何カ月もかけて作った映画の作り出す世界よりもリアルな世界が創り出される。想像的才能が作り出したこれらの作品はあまりにありふれているので,多くの者がそれと気づかないだけなのだ。
 私の仕事は,起きたままこれらの夢のリアリティに近づくことが可能である,という考えに基づいている。それが体に及ぼす影響を体験することで,メンタルヘルスとか,身体疾患からの回復,芸術や科学における創造的なプロセスにも何らかの影響を及ぼすことができる。夢はまだ開拓されていない宝である。それが何を意味しているか決してわからないとはいえ,ともかく,それらの想像活動に取り組むことで,それぞれの人生が場当たり的なものではなく,より意味のあるものとして感じられるようになる。夢は想像活動の情熱であり,それは物理的な次元で体験された情熱にもまさるものである。それは生の豊かさを証言するものでもある。
 夢という純粋な想像活動のワークから開発されたこのドリームワークという方法は,日常生活の記憶など,他の心的機能に応用することも可能である。そして,本書のいくつかの章で示されているように,トラウマのワークにも応用できるだろう。

 私は自分のワークが日本という豊かな土壌を見つけたことに感謝したい。河合隼雄教授が私を初めて日本に招いてくれたのは1985年だったが,何が待ち受けているかわからなかった。長い間日本とか日本的なものに情熱を抱いてきたこと。一度も日本語を学んだことがなかった自分に絶えず不満を感じていたこと。オウム返しとはいえ,私の日本語の発音は上手だと友人が保証してくれたこと。その友人たちは生涯の友となったこと。そして私は自分の仕事を全く方向転換したことなど,さまざまな思いが去来した。
 私がこれほど日本のことを好きになるとは全く予期せぬことであった。私は大戦後の母国オランダで育ったが,少年時代は,日本はそれほど好きな場所というわけではなかった。友人の両親が,戦争捕虜としてビルマの鉄道で働かされたが,その時に日本軍から受けた扱いはお世辞にも良いとはいえないものであったと話してくれたのが思い出される。それでも日本は私を魅惑した。私はライデン大学法学部を卒業したら,1年間日本に住む計画を立てていた(私はユング派分析家としての訓練を受ける前に,法律学と犯罪学を学んでいた)。しかし運命のいたずらにより,私は結婚して,日本に来る代わりにチューリッヒに赴き,ユング研究所で学ぶこととなった。
 ユング研究所ではアニエラ・ヤッフェAniela Jaffeに分析を受けた。彼女はユング側近の共同研究者で,『ユング自伝』も彼女が書き下ろした。彼女には一生感謝しても足りないほどである。彼女からは,仕事に専心し,たましいの深い流れを愛することを学んだ。教育分析の終了にあたって,彼女は,私がすばらしい人々に教わってきたのだから,今度は教えるようになることを強く勧めた。分析は一つの伝統であり,個人的に伝えられるべきものである,と彼女は私に保証した。私のもう一人の教育分析家はジェイムズ・ヒルマンJames Hillmanであった。彼の強力な精神は,私の拘泥している心に比較的明晰な思考体系の形を与えてくれ,私は今でもそこから元気をもらい恩恵をこうむっている。彼に負うところは言葉では表現できないほどである。これからみなさんが読もうとされている論文のどれ一つとして,彼の作り上げたもの,ユングのイメージ,フロイトの果敢な創始を抜きにしては考えもつかないものばかりである。
 ある日,私がチューリッヒでの自分の分析を終えた1977年以後のこと,おそらく1980年代初期だったと思うが,ジェイムズ・ヒルマンは合衆国へ戻ってきて,その途中で初めて日本にも立ち寄り,われわれに日本のことを話してくれただけでなく,日本人も連れてきた──ニューヨーク州のバッファロー,ナイアガラの滝の近くで,研究と議論の花を咲かせた親密で長い週末を過ごすことができた。これを企画したのはポール・クグラーPaul Kuglerだった。やってきた日本人とは河合隼雄,樋口和彦の両名だった。私はこれら二人の著名な方々に出会うことができて嬉しかった。私は自分の人生と日本的なものとの間にある文化的地理的な距離にまったく驚きながら散策したのを覚えている。
……(後略)

シドニーにて,2004年7月4日   ロバート・ボスナック