「訳者まえがき」より

 臨床に携わる者にとって,事例や実践を通して学ぶことは多い。そこには,いわゆる臨床心理学や精神医学の知見だけではなく,学問分野の一般的な区分を超えた──あるいは領域として分けられる以前のといった方がよいかもしれない──人間存在の普遍的,根源的なテーマが見えてくることがある。初心者の心理療法家が,真摯にクライエントに会い続けることで,事例としては上手く展開しているにもかかわらず,何が生じているのか本人がよく分かっていないことはままある。しかしそのような場合でも,読み解く側に力があれば,その次元まで見ることは可能である。心のエネルギーが注がれると,なかなか凄いことが起こるものだ。それならば,実践を行う者自身が,人間存在の根幹に関わるような理論を背景に持ち,心の深みに開かれながらもしっかりと意識する目でその実践のプロセスの中で生じてくるものを見続け,そこから独自の新しい考えを組み立て,さらにそれを言葉にする力があるとするならば,いかがであろうか。そのような人物によって示されるものは,われわれにとって,人間についてそして世界について考える上での貴重なテクストであり,良質の刺激にもなりうるであろう。本書はまさにそのような本である,と私は思う。

 本書は,ユング派の分析家であり,ドリームワークという独自の方法を考案し,世界各地で精力的にその実践を行っているロバート・ボスナック先生の講義や講演を邦訳し,編集したものである。先生は1985年の初来日以来,翌年を除いて毎年日本を訪れ,その度に各地でドリームワークのセミナーや実践を行われているので,ご存知の方も多いだろう。実際,グループで行われるワークに参加した経験を持つ方々もおられるかもしれない。また著書の邦訳としては,1992年に『夢体験を深める──ドリームワークの方法』(渡辺寛美訳),そして2003年には『クリストファーの夢──生と死を見つめたHIV者の夢分析』(岸本寛史訳)が,いずれも創元社から出版されている。
 さて,本書を読み進めていただく上での導きとなるようにということを念頭に置きながら,私自身が考えてきたことも多少織り交ぜて,幾つかの重要な点について述べておきたい。

Ⅰ ドリームワーク

 ドリームワークとは,ドリーム(夢)とワーク(作業)という二つの言葉からなる造語であり,夢を材料と見なすワークであると述べられている。ワークする素材は,夢見手が報告する夢の中からボスナック先生が即座に選び取り,それを材料にしてワークが始まる。ワークは,「夢の元型的な底流に添って」(本文p.29)なされれば,夢見手のプライベートなことに触れずに,グループの中で行うことも可能であるという。具体的な方法については後述するが,実際のワークが進められる様子は,各章随所に逐語的に詳述されているので,臨場感を持って体験できるだろう。

1. “Embodied”ドリームワーク
 2004年3月,ボスナック先生,共訳者である岸本先生そして私の三人は,前日の『夢と身体』をテーマにしたシンポジウム(静岡県立総合病院にて開催)を終え,その興奮もさめやらぬまま,翌朝静岡市内のホテルで本書について話し合っていた。ちなみにその時のボスナック先生の講演『トラウマを代謝する』は,本書の第8章に収められている。
われわれの間でまず話題になったのが,本書のタイトルについてだった。ボスナック先生が特に強調されたのが,「ドリームワークといっているけれど,本当は“Embodied dreamwork”なので,タイトルに“embodied”の意味合いを盛り込めないか」ということだった。以下はその時のやりとり。

「これ(embodied)は日本語にするのが難しいんです。embodyというのは体を与える,そしてここでは体で体験するという意味もあるんですよね?」
ボスナック:「そうそう,何かそんな意味の日本語はありませんか?」

……「具体化する」とか「具現化する」とか,候補を挙げてみたものの『具体化されたドリームワーク』や『具現化されたドリームワーク』では何が何だか分からない。

「肉(flesh)を与えるというのなら,受肉する(incarnate)という言葉がありますけれど」
ボスナック:「肉を与えるという意味ですか。ああ,それ,そのジュニクスルというのは凄くいい。ところでそれは一般的に使う言葉ですか?」
「いやー,普通には使わない。特殊だと思う」

……実際『受肉されたドリームワーク』では,さらに訳が分からなくなる。

三人:「うーん……」

ということで,結局タイトルは『ドリームワーク』に収まった。だからまずここで,本来タイトルに盛り込まれるべきだった“embodied”の意味合いについて説明を補っておかねばならない。ここで私があえて英語のまま表記しているのは,この言葉こそがこのドリームワークにとって重要な意味を持っているにもかかわらず,上に示した会話からもわかるように,適当な日本語に置き換えるのが難しいからである。本文中の訳出の際にもかなり苦心して,その都度訳し分けたりカッコ付けで原語を挿入したりしている。
とりあえず英和辞典を見てみよう(以下は『ランダムハウス英和大辞典』[小学館]および『リーダーズ英和辞典』[研究社]をまとめたものである)。「Embody」は,「body(体)」という名詞に接頭辞em(enの異形)がついたものである。

(1)emには「……にする」,「……ならしめる」の意味があるので,「embody」は「体にする」とか,「体にならしめる」という意味になる。
(2)emには「in」「into」の意味もあり,「embody」は(ある形体の中に)「統合する」,「組み入れる」「包含する」という意味ももつ。

 これらを,夢を扱うという文脈において理解するならば,夢の中に立ち現われてくる目に見えぬイメージを,体(形)を具えたものにならしめる(具体化する),つまりイメージに体(形)を与える,という意味とともに,その夢の中に組み入れられる,夢の中に含まれるといった意味合いもあることを忘れてはならないだろう。夢の中に入り,現われてきたイメージのさまざまな側面に入り,そのイメージに体(形)を与えていくプロセスを,身体性を伴って体験することこそがドリームワークでは重要なのである。
 実際,いくら一見ドラマティックな夢を見ようとも,夢見手がそれにコミットしなければ本当の意味での体験にはなりえず,何も変わらない。それはただ見ているだけで,次々と名所旧跡を連れ回され,○○にも行った,××にも行ったという自己満足が残るだけの観光旅行のようなものである。夢のイメージを持ち続け,さらにそのイメージの中に入り,内側から体を通して,さらにいえば五感に開かれながら体験する。心と体の意を曖昧に兼ね備えた日本語の言葉,「身」を用いて「夢の中に身を置いてみる」と言うとよりピンとくるかもしれない。何にせよ外から見るのと内側に入って見るのとでは,ものの見え方は随分違うものである。いろいろと想像を巡らしてみられたい。
 ところで,このようなことは何も夢や観光旅行のことだけではない。現代人の多くにとって,本来自分の実際の体験であるはずのものも,その実感が希薄で,まるでただ目の前を通り過ぎていく束の間の事象であるかのようになってしまってはいないだろうか。事象から自らを切り離し,関係を持てない,あるいは持とうとしない。一つの事象に留まることなく,ふわふわとさ迷い,漂う。体験をするということは,事象の中に入り,留まり,下降しながら,内側から自らとのつながりを探りながら創っていくことである。このように考えていくと,今日の人間の身体性をめぐる問題のことが次々と頭をよぎり,“embody”は現代を考える上での重要なキーワードとして考えられるようにも思う。

2. 夢は見るのか? 夢は誰のものなのか?
ところで,ここで加えて述べておきたいことがある。本書だけではなく,これまで英語で書かれた夢に関する本を読んでいて,私の中で引っかかっていたことがある。それは夢についての表現のことだ。日本語では普通「夢を見る」と言うが,英語ではそのような表現はしない(ボスナック先生も本文124ページに「日本語流に言えば」とわざわざ指摘している)。英語の文献には“have a dream”(直訳すれば「夢を持つ」)とか“occur”「(夢が)生じてくる」とか,“send”「(無意識が,夢を)送ってくる」といったような表現が見られる。
「私」=「自我によって統合されている意識している自分」と捉えると,本来夢見については「私」の意志ではないのだから,「私が夢を見る」というよりは,むしろ,知られざる第三者あるいは何かによって「私が夢を見せられた」という方が真実に近いかもしれない。また,英語の表現でいえば,「私」に生じてきたもの(あるいは「私」に送られてきたもの)が夢であり,それを,主体性をもって「私」が見るか否かはまた別問題ということになる。つまり夢が生じてきても「私」が見るとは限らないわけである。このように考えていくと,日本語と英語の表現における違いは「私」をどう捉えるかの違いによるものなのかもしれない。「私」=「自我によって統合されている意識している自分」であれば,「私」の意志に関わらず生じてきたものを「私」が見るのか見ないのか,ということになる。それに対して「私」の概念に,「自我によって統合されている意識している自分」という意味合いを超えた部分まで含むとするならば,やはり「私」は夢を見ているといえるだろう。英語の場合が前者であり,日本語の場合が後者であるといえよう。ちなみにボスナック先生は「夢主」(dreamer)に対してわざわざ「『私』とは異なる,夢を作り出している知られざる要因」(本文p.33)と注意書きを付している。これはつまり「私」=「夢主」ではないということだ。
 また別の視点から見れば,主体の関与の違いがあるのかもしれない。一般的に,日本語においては,本当は私の意志で,「(私が)引越しすることにした」はずであるにもかかわらず,「引越しすることになりました」と言ったりする。「私」という存在が,状況の中で周りから峻別された「個」としては捉えられず,大きな流れの中の一要素として「私」があるといったくらいの感覚なのだろうか。とするならば,夢についても,夢の中の一要素として「私」があるくらいのスタンスなのかもしれない。
 日本語で「夢を見る」といっている場合,主体性のいかんはさほど問題ではなく,送られてきたものをあるがままに受け止めれば,それで見たと表現されるのに対して,英語では主体性を持って見ない限りは「見る」と表現しない,という違いがあるように思える。
 いずれにせよ一見些細なことのように思われるかもしれないが,「私」と夢の関係についての表現の違いには,「私」という概念の捉え方の違いも反映されているようで興味深く感じられる。「私は夢を見るのか?」という問いを通して,「私」とは何なのだろう,どこまでが「私」なのだろうか,という疑問を持ってみることもなかなか面白いと思う。また,一体何が夢を作っているのか,あるいはどこから夢は来るのか,「私の夢」と言っているけれど夢は本当に私のものなのだろうか,など,疑問は膨らむ。いかがであろうか。
……(後略)

2004年6月29日   山 愛美