「あとがき」より

 1984年。たった一枚の案内だけを頼りに,ある研修会に出かけていった。生まれて初めて本気で勉強した研修会である。諸般の事情で研修会を受けながら即座に臨床活動に反映するという,今考えればとんでもない離れ業を連発していた。それを推奨したのは,研修会の講師であった師匠(というと怒る)東豊である。しかし,それ以来はまっていったのは,家族療法という技術ではなく,そのための「ものの見方」であった。これか全てのはじまりと言っても過言ではない。
 1987年。それまでにいくつかあったファミリールームを統括した組織,システムズアプローチ研究所を立ち上げた。スタートした時にはぺーぺーの若造。私以外のスタッフは……ほとんど年上であった。それでも「何とかしなけりゃ」の勢いだけで,日々の臨床を続けていた。朝の10時から深夜まで。出前で頼んだ昼食の天津飯が夜食になるのが当たり前。それもそのはず,面接室から出てくるのがクライエントの入れ替えの時だけだったから,食べる暇もなかった。おかげで変な自信もついてしまった気がする。そう,「臨床は気合いと根性だ」と。それが現在でも研修の中の「合い言葉」になっているのだが,そろそろ止めたい。
 1989年。本書にその詳細を書いたが,エリクソンへの傾倒が始まった。何が何でもエリクソン,朝から晩までエリクソン。エリクソン,エリクソン,エリクソン,漬かりすぎて気分的には青菜に塩の状態だったように思う。
 1991年。数年前からいろいろな話が私の耳にはいるようになってきた。「日本でエリクソン会議をやりましょう」「MRIの日本版組織を作ろう」「浜名湖シンポジウムの続編の琵琶湖シンポジウムをやりましょう」などなど。聞けば聞くだけワクワクしながらも,だんだん気持ちは冷めていった。結局自分がこれ以上忙しくなることを押しつけられそうだったから。だから,珍しく人が集まるということで東大まで出かけていって,ある会議に参加することにした。それが現在の日本ブリーフサイコセラピー学会の前身,日本ブリーフサイコセラピー研究会である。最初に気に入ったのは,ほとんど知らない人の集まりだったこと,何語かわからない言葉が飛び交っていたこと,そして,はじめて私の言葉が通じたこと。
 1995年。福岡で第1回環太平洋ブリーフサイコセラピー会議が開かれた。諸般の事情で学会主催のワークショップを行うこととなった。なぜか知らないが……。そこでも多くの人たちとの出会いがあったが,いろいろなことを私が勉強させてもらった気がする。特にそれまで忌み嫌っていた力動的精神分析系の先生方と。そのワークショップの時の記録が,本書の「書き下ろし」の部分(第7章と第8章)に残っている。今考えても,10年前にこんなこと言ってワークショップをやっていたんだなあと,我ながら感心する次第である。この頃の影響で後進を育てることの重要性を意識したように思う。なぜなら,それまで人を育てているという感覚がなかったから。
 1998年。その時の繋がりでできた治療の関係から,複雑怪奇な連動によって,「コミュニケーション・ケアセンター」を主宰することとなった。たぶん,いろいろな方法を駆使しようとした臨床的な取り組みに一人で立ち向かうことに疲れ果てていたのだろう。言葉で言うほど「何でもあり」の実践は簡単なものじゃない。母子同時催眠や行動療法的家族療法,家族に対する認知療法,精神分析的色合いを意識した家族での洞察療法,最新の方法論であった単家族への心理教育などなど。そうした考え方を自分の中で使い分けられるようになるには,人が必要だったような気がする。アーでもない,コーでもないという対話のできる人が。でも実際には,システムズアプローチに戻っていっただけであり,私的ブリーフセラピーを先鋭化していただけのような気がする。
 2000年。誰が言うともなく「戦略的」であったはずの私が,いつしか「戦略の極地」といわれたグーリシャンGoolishian, H.と,「理論の鬼」といわれたデルDell, P.を追って,結局のところナラティヴ・セラピーに漬かっていた。私の中では究極の戦略的なアプローチとして。しかし,社会的に作られている自分を書き換えることができそうにない,とわかったとたん,またしても通訳に徹するという葛藤回避をはじめていた。それは,「自分には自分の臨床があるはずだから」という古ぼけてしまった大義名分だけを頼りにして。
 2003年。こんなはずはないという驚くべき結果に,自分で愕然としてしまった。ここ数年の自己目標にして,それを達成し続けていたはずなのに,それが無惨な結果として表れたのだから,信じられなかった。それは,まともな原著論文,意味ある研究報告,それなりの雑文が0本という結果。結果から見れば,一年間まともな研究活動を何もしていないなんて! 驚くべき結果である。当然いろいろと直線的に原因を考えたところ,出た結論はただ一つ。連載のせい,これ以外にない。その連載が本書の中心的な部分になっている。しかし,特殊領域の専門家だけでなく,他領域を含む専門家向けの文章は,よくよく考えてみるとあまり書いていないことに,この本の最終編集をはじめてから気がついた。それで自分が納得できるようになった。本書の「小窓」にも書いたが,これまでにないほどの産みの苦しみを味わった理由がわからなかったことが苦痛だったようである。
 20XX年。社会的な意味構成・現実構成が一変し,様々な心理療法に対する焚書が行われるようになった現在,本書や一部のブリーフセラピーの著書は,心理療法の著書としての意味がないと判定された。そこでは,ブリーフセラピーが心理療法ではなく「日常生活の中での当たり前の知恵の集まり」として生き残り続けている(という夢を見ました)。

 本書の読者諸氏には,「いまさらここまで来ても言うか!」と怒られそうであるが,あくまでもここに記されている内容は,『私的ブリーフセラピー』である。というより,自分で勉強してきたつもりになっているブリーフセラピーの断片集である。そして,プライベートでは自分に対しての未来志向が嫌いである。私にとっての未来とは,限りない可能性の集まりであって,志向するほど狭いものではないのだから……。言い訳のように聞こえるかもしれないが,本書が読者にとってどのように役立つかについては,一切想像しないでできあがった不思議な単著である。好きなように切り取ってもらえれば,好きなように使える部分もあるものであり,まったく役に立たない不要なものとなるかもしれない。しかし,その責任は読者にあるのではなく,著者である私にある以上,どこかの学会会場であれ,研修会場であれ,「吉川,責任取れ」とばかりに議論をふっかけていただくことを期待してやまない。
……(後略)

2004年8月 吉川 悟