「訳者あとがき」より

 本書は2003年にBMJ Booksから発行された,“Narrative Based Health Care: Sharing Stories―A Multiprofessional Workbook”の全訳である。
 本書の筆頭著者である,Trisha Greenhalgh教授は,現在University College of London(UCL)の一般医療学(Primary Health Care)の教授であるとともに,北ロンドンで開業するGeneral Practitioner(GP)でもある。教授は,英国におけるEvidence Based Medicine(EBM)の第一人者として早くから名を知られており,Cochrane Libraryのプロジェクトにも早期から関わり,Clinical Evidence誌(BMJ Publishing:本邦では日経BPより発行)の編集委員にも名を連ねている。邦訳されたモノグラフとしては,“How to Read a Paper: The Basics of Evidence Based Medicine”(BMJ Publishing, 1997;今西二郎他訳:EBMが分かる―臨床医学論文の読み方.金芳堂, 1999)がある。この本には,臨床疫学的エビデンスの批判的吟味に関しての極めて分かりやすい解説が述べられているが,同時に「質的研究法」や,「患者や医療者の語る物語」の重要性が強調されており,著者の特徴の片鱗がすでに現れている。ついで,Brian Hurwitz教授との共同編集により1998年に発行された“Narrative based medicine―Dialogue and discourse in clinical practice”(BMJ Books, 1998;斎藤清二他監訳:ナラティブ・ベイスト・メディスン―臨床における物語りと対話.金剛出版. 2001)が,著者の金字塔となり,Narrative Based Medicine(NBM)の概念は,本邦においても急速に普及している。
 NBMは,患者の語る物語を全面的に尊重し,患者と医療者の対話の中から,新しい物語が生まれてくることを期待する,という基本姿勢を堅持する医療であると言える。しかしNBMは,物語という言葉をキーワードとして,非常に幅広い分野との学際的交流をその特徴としており,その全貌を簡明に述べることは困難で,診療実践,教育,研究などの各々の分野に焦点をあてた,実践的な書籍の発行が望まれていた。本書は,狭い意味での医療に限定されない,地域を巻き込んだ保健医療の実践における,特に成人教育の分野における物語の利用に焦点を当てた著作であり,極めて簡明・平易な記述にもかかわらず,いやむしろそうであるがゆえに,一般読者にとっての有用性は非常に高いと思われる。
 本書は,Diabetes UKからの資金援助による,The Diabetes Sharing Stories Projectの一環として行われた,英国保健専門職によるグループ学習の実践結果に基づいて作成されたものである。共著者のAnna Collard女史は,英国のNPO組織であるSocial Action for Healthのメンバーで,Greenhalgh教授とともに,このプロジェクトの実践に携わった。
 本書は,ある特定の地域(中部ロンドン)の,ある特定の民族集団(バングラデシュ・コミュニティ)における,ある特定の健康問題(糖尿病患者の治療,管理,健康増進など)に関する実践の記録であり,その内容は極めて限定的かつローカルなものである。しかし,本書の序論でも強調されているし,本文に目を通した読者はすでに気づいていると思うが,このような,具体的でローカルな,「生きた体験の記述」によってこそ,私達は,私達自身それぞれの現実の環境,背景における実践のヒントを得ることができるのである。なぜならば,そこには,実践や洞察のプロセスが具体的に生きた言葉で語られており,そのプロセスに,私達自身の現場における内容を代入することにより,実践のための動的な構造を構築することができるからである。ここに,ローカルな物語こそが,逆説的に一般性を獲得するという好例を見ることができる。
 本書は前半の約半分(序論)が,物語に基づく医療・健康増進の実践のための,極めてコンパクトで分かりやすい入門編となっている。その内容の一部は,前著“Narrative based medicine―Dialogue and discourse in clinical practice”と重なるものであるが,さらに,成人グループ学習についての最新の理論の解説が加わっており,この内容は,健康に関するあらゆる分野での「実践教育」のカリキュラム・プランニングにたいへん役にたつものと思われる。
 後半のユニット1〜10は,まさにグループ学習の実例であり,新たな実践のための雛型である。これらの内容は,医療機関(病院など)や,地域保健における複数の専門職によるグループ学習,医学,看護学,社会福祉学などの教育機関におけるチュートリアル教育,患者支援グループや成人社会教育におけるグループ学習など,すぐにでも応用できることは確実である。そして,本書は,知識を伝えるための教科書でも,単なる技術マニュアルでもなく,参加者が物語を語ることを通じて,学び,考え,交流し,創造していくことの手助けとなるワークブックであることを,私達は容易に見てとることができるのである。
……(後略)

2004年9月23日   斎藤 清二