訳者あとがき
――解題にかえて――

 本書は,バレント・W・ウォルシュとポール・M・ローゼンによるSelf-mutilation― theory, research, treatment. The Guilford Press, New York(1988)の全訳である。目次を一瞥して頂けばわかるように,本書では,「自傷行為」という現象を,さまざまな側面から取り上げて論じている。デュルケムやシュナイドマンの著作が自殺学における必読書としての価値があるように,本書もまた,「自傷学」における必読書として,他の自傷に関する類似書にない,卓越した価値がある。本書のすばらしさは数多くあるが,ここではそのうちの2, 3を列挙してみたい。
 第1に,著者らは一貫して,「多次元的手法」なる方法論にもとづいて各章を執筆していることである。多次元的手法とは,それぞれの章のテーマに関して,まずは精神病理学的な理論や仮説について「批判的な」紹介を行い,次に実証的/疫学的研究の知見をレビューし,最後に,彼ら自身の経験した臨床例を紹介するという方法である。つまり,すべての章が,理論的研究の概観→実証的研究の概観→症例→結論という流れで論じられているのである。この手法は,読む側にとって大変な説得力を持っている。読者は,各章を最後まで読みすすめていくと,彼らの主張がたんなる臨床経験における印象にとどまらない,普遍的なものであることを理解し,共有できるようになっている。
 第2に,境界性人格障害における自傷だけにとどまらず,精神病患者や自閉症・精神遅滞患者における自傷についても,具体的な治療方法も含めて,詳細に論じられていることである。このあたりも,本書が「自傷学」の包括的教科書たるゆえんであろう。そして最後に,従来,わが国では真剣に議論されてこなかった重要な問題――自傷行為と自殺との相違,さらには,自傷の伝染現象とそれに対する介入法――について,かなりの紙数を割いて論じていることがあげられる。とりわけ,伝染性の問題は,多くの青年期患者が入院する精神科病棟あるいは矯正施設などでは,スタッフが日常的に直面する難問のひとつである。あるいは,この問題は,近年のわが国のように,インターネットの自傷関連サイトを通じて,自傷者がその裾野を広げている状況に置き換えても,この伝染性という概念から理解できる可能性があろう。

 ここで,著者について簡単な紹介をしておきたい。まず,バレント・W・ウォルシュは,ボストン・カレッジ・ソーシャルワーク・スクールで博士号を取得したのち,本書でもたびたび登場する,マサチューセッツ州ウースター市にある,児童および青年を対象とした地域治療共同体(Community Treatment Complex; CTC)でセラピストとして臨床に従事してきた。現在は,その施設のExclusive directorを務めている。一方,ポール・M・ローゼンは,デンバー大学で博士号を取得した臨床心理学者である。個人開業をして心理療法を実践するかたわら,マサチューセッツ大学医学部でも教鞭をとっている。また,長年,ウースターの公立ハイスクール心理コンサルタントを務めており,ウォルシュとの接点もその経験が契機となっているものと思われる。
 本書を語るうえで忘れてはならないのが,ウォルシュの勤務する地域治療共同体の存在であろう。正式には,“The Bridge of Central Massachusetts (BCM)”という名称のこの施設は,1973年,住民の強いはたらきかけにより,民間の非営利的団体として設立された。そこでは,ハイスクールを卒業もしくは中途退学しながらも,さまざまな精神障害,情緒障害,発達障害,薬物乱用などの問題行動のために社会参加がままならない青年たちを対象に,「治療共同体」体験を通しての更正を目的とした活動が行われている。つまり,問題を抱える青年たちにとって,学校から地域への「かけ橋(bridge)」となるべき場所といえるであろう。
 このような施設のあり方は,どこかわが国のダルク(DARC: Drug Addiction Rehabilitation Center)を思わせる。しかし,ダルクが薬物依存に特化した援助を目的とし,回復者による自助的な運営がなされているのに対し,BCMの場合は,対象とする問題の幅が広く,施設の規模も巨大である。また,提供するサービスも,心理学,精神医学,ソーシャル・ワーク,教育などの多方面からなる専門的な援助が中心となっている。
 BCMのホームページによれば,この施設の規模は,わが国の精神医学・心理の臨床家の想像をはるかに凌駕するものである。BCMでは,設立当初より,ウースターの州立精神病院と連携し,入所治療プログラム,放課後通所治療プログラムを実践してきたが,その規模は年々大きくなり,現在では,入所・通所あわせて30の治療プログラム(そのなかには,給料をもらいながら飲食店や工場などで職業訓練を行う就労プログラムも含まれる)と広大なエリアに点在する18の入所施設があり,平均プログラム参加者は350名にも及んでいるという。
 また,対象とする問題も非常に広範である。典型的な精神障害はもとより,さまざまな自己破壊的行動,社会的ひきこもり,対人関係や家族関係の問題までをカバーし,提供される援助内容も,薬物療法はもとより,弁証法的行動療法(dialectical behavioral therapy),家族療法,グループ療法,精神分析療法などの心理療法,および,各種精神科リハビリテーション・メニューまで幅広く,包括的かつ高度に専門的である。まさにCommunity Treatment Complexという言葉がふさわしい。
 これだけの規模のところに,精神的な問題を抱えた青年が多数集まっていれば,当然ながら,自傷行為をくりかえす者は少なくないはずであろうし,1人が自傷すれば,それに触発されて,連鎖的,同時多発的に多数の自傷が発生してしまう実情も,容易に想像される。その意味で,本書の第4章の自傷の伝染性,第12章のグループ治療などは,この施設での地道な臨床活動と青年たちとの奮闘の歴史なくしては書けない内容であり,また,そのことが,本書をたんに諸説をレビューするだけの無味乾燥な本に終わらせない理由にもなっている。
 驚くべきことに,彼らのこのような姿勢は,自傷の伝染現象だけでなく,この本で取り上げられている,自傷に関する他のすべてのテーマに対しても貫かれている。つまり,すべての先行研究の知見は,著者らのBCMにおける臨床経験というフィルターを通して批判的に検証され,もしも先行研究の知見が不十分であったり,信頼できないものであったりすれば,彼らはみずからの手で実証的な研究を行うことも辞さない。これはすべての臨床家が範とすべき理想の態度といえよう。本書は,そのような臨床活動と研究活動が密接に連動を四半世紀あまりもつづけてきた者による,「自傷学」の書なのである。

 さて,われわれがこの本の翻訳を思い立った経緯について触れておこう。
 訳者の1人である松本は,これまで,薬物依存専門病院の精神科医としての臨床経験のなかで,多数の自傷者(その多くは,摂食障害を合併する女性薬物依存者であり,Laceyのいう意味での “多衝動性過食症(multi-impulsive bulimia)” としての臨床特徴を持っていた)と遭遇し,自傷行為に関心を抱くようになった。一方,山口は,臨床心理士として,学生相談や中学校でのスクールカウンセラー業務のなかで,やはり自傷をくりかえす学生や生徒の対応に苦戦しており,そのような臨床体験のなかで,必然的に自傷行為に対する問題意識を抱くようになった。確かに,思春期・青年期の若者たちの「リスカ(リストカット)」や「アムカ(アームカット)」は,いまや,学校現場で教員が頭を悩ます,厄介な問題の1つとなっている。
 その後,松本が,山口の勤務する大学の保健管理センター嘱託医となり,自傷行為をくりかえす学生の援助方法をめぐって議論する機会を得たのを契機として,自傷の共同研究を開始したのである。
 われわれはまず,自傷に関する内外の文献を徹底的に読むことからはじめ,次いで,大学病院や総合病院,薬物依存専門病院,大学,矯正施設において,自傷に関する実証的な研究を実施し,その結果のいくつかを論文化した。しかし,このような作業を通じてわかったのは,わが国の自傷研究は,海外に比べて,深刻な遅れをとっているという事実であった。わが国には,自傷行為という行動障害を実証的な手法で理解し,把握していこうという態度が希薄であるように思えたのである。
 こうした認識にもとづいて,まずは山口が,海外の自傷研究に関する良書を翻訳し,わが国の臨床家に紹介しようと行動を開始した。やがて,山口に触発されて,松本も翻訳に加わり,今回の翻訳が実現することとなったのである。

 海外の自傷研究を最初にわが国に紹介したのは,精神分析的志向性を持った精神科医たちであった。彼らは,精神分析的な立場から,あの有名なローゼンタールらの「手首自傷症候群」を紹介したわけだが,良くも悪くも,これによって,わが国のその後の自傷研究の方向性は,限定されてしまったといえるであろう。というのも,彼らは,ローゼンタールと同時代の,他の価値ある自傷研究(Pao, 1969: Kreitman et al, 1969; Simpson, 1976: Morgan, 1979; Ross & McKay, 1979など)にはほとんど触れなかったからである。その後の1980年代以降,わが国では,精神分析的な志向性をもつ精神科医を中心に,「ボーダーライン・ブーム」が勃興したが,このことがかえって,自傷という行動障害を徹底的に吟味することを阻み海外の実証的な自傷研究が紹介される機会を失わせてしまったように思われる。その結果,比較的最近まで,わが国の平均的な精神科医,臨床心理士は,自傷行為を,「スタッフをうんざりさせる,未熟で操作的な,ボーダーライン・パーソナリティの1症候,もしくは,行動化の1形式」として理解し,限界設定の対象として捉えることとなってしまった(なお,米国の自傷研究者として名高い精神科医ファヴァッツァ(Favazza, A.R.)らは,1989年の “Suicide and Life-Threating Behavor” 誌に掲載された論文のなかで,習慣性自傷者のうち,BPDの診断を満たしたものは半分に満たなかったことを報告し,自傷=BPDという見解に疑問を投げかけている)。
 しかし,現実の臨床現場に現れる自傷者は,年々増えつづけた。それを反映してか,専門誌でもたびたび「リストカット」特集が組まれてきたが,そのたびに掲載される総説では,「手首の人格化」のような,抽象的な精神分析的解釈がくりかえし引用され,あるいは,実証的なデータの裏付けもなく,十分な文献検討もないまま,散文的に私的な印象や臨床雑感を述べることに終始することも少なくなかった。こうした事態は,時代の変化から精神医学や心理学が大きく取り残されている証拠といえた。なによりも深刻な欠点は,そもそも,そこで使われている用語があまりにも古いということであった。なにしろ,わが国ではいまもって,「自傷行為(self-mutilation)」ではなく,「手首自傷症候群(wrist-cutting syndrome)」という用語が汎用されている。ちなみに,本書第1章でも指摘されているように,海外の自傷研究では,すでに20年も前に,「手首自傷症候群」の臨床単位としての意義は否定されており,この言葉自体,いまはほとんど使われることがなくなっている。
 以上のような認識が,われわれの翻訳の動機に大きく影響している。さらに,もうひとつの本書訳出の理由として,わが国の自傷研究の水準を上げ,自傷行為の臨床に積極的にとり組む多数の臨床家の登場を期待する思いがあった。
 われわれが知るかぎり,こと自傷に関しては,わが国の平均的な専門家の力量は玉石混淆といわざるを得ない状況にある。「リストカッターお断り」といういささか見当外れの標榜をしている精神科クリニックがある一方で,治療の方向性もわからないまま,漫然と自傷者に対する診療をつづけ,のみならず,いたずらにさまざまな向精神薬を大量に処方し,結果として,「医原性に」大量服薬や服薬酩酊下での衝動行為を頻発させている場合もある。さらに,これはさすがに多くないかもしれないが,「『自傷他害のおそれがある』として閉鎖病棟の保護室での治療を要求すれば,自傷は治る」と豪語する精神科医の話を聞いて,われわれは唖然としたことがある。
 ここであえて付言しておけば,本書の第11章でも触れられているように,いかなる行動抑制やパワーによる支配も,完全に自傷を止めさせることはできない。自傷者本人がその気にならないかぎり,誰も自傷を止めることはできないのである。同じように「故意に自分の健康を害する行為」に分類される,薬物乱用や不食・過食と異なり,自傷には,面倒な準備やお金も要らない手軽さがあり,その気になればいつでもどこでもできる。たとえ四肢・体幹を拘束されても,それは可能である。たとえば,拳で自分の身体を殴ったり,自分の爪で手のひらを傷つけたり,歯で頬の内側を噛んだりすることは,ほとんどの状況で実行できることである。唯一,自傷を強引に止めさせることができる方法は,麻酔薬による完全なる鎮静であるが,眠ることで何かが変わるわけではないし,永久に鎮静しつづけることは,もはや治療ではない。
 自傷行為には,虐げられてきた者の「支配に対する抵抗」,「相手が復讐できない無言の攻撃」という側面がある。うかつな対応は,治療関係を不毛なパワー・ゲームの泥沼へと沈めてしまうことを,心しておかねばならない。すなわち,自傷行為は,治療者に対するSOSでありながら,同時に,一種の挑戦としても,くりかえし立ち現れるのである。われわれはもう一度,謙虚な気持ちでこの行動障害と向き合わねばならない。
 ……(後略)

平成16年9月 訳者  松本 俊彦・山口亜希子