訳者あとがき

心理学的剖検,ポストベンション,すべてはシュナイドマンから始った
 本書はEdwin S. Shneidman著『Suicide as Psychache : A Clinical Approach to Self-Destructive Behavior』(Aronson社,1993年)の全訳である。シュナイドマン博士は,近年の自殺予防学を主導してきた著名な心理学者である。私も自殺予防の領域に携わって以来,シュナイドマン博士の多くの著作から学んできた。幸い,フルブライト研究員として1987年から1988 年まで米国に留学する機会を得た時には,まず,留学先としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部神経精神研究所が頭に浮かんだ。シュナイドマン博士に直接指導していただく絶好の機会と考えたのだ。この経験は,人生の宝のように私の記憶に鮮明に残っている。今でも,しばしばシュナイドマン博士とのやり取りを思い出す。とくに毎週火曜日の午後は先生の自宅にうかがい,2人だけで中庭に出て,カリフォルニアの青い空の下で何時間も議論したことはとても懐かしい思い出である。
 シュナイドマン博士が指導を受けたマレー教授の理論,どうして心理学的剖検が生まれたか,自殺の最大の原因は何か,ポストベンションの必要性など,熱を込めて,私に語りかけてくださった。
シュナイドマン博士の理論がきわめて興味深いという理由で,UCLAに留学したのだが,実際にロサンゼルスに行って,私の 選択に誤りがなかったことを喜んだ。いつの日にかシュナイドマン博士の本を翻訳したいと考えていた。しかし,シュナイドマン博士の仕事を従来から紹介してきた人々が既にいて,ことごとく版権がそちらに行ってしまい,私にはその機会が回ってこなかった。
 今回,金剛出版から翻訳の企画が持ち上がり,17年後にして,ようやく私の夢が実現したことになる。本書はシュナイドマン博士の代表的な論文を集めたものである。あらためて読み直してみると,1987年〜1988年当時,シュナイドマン博士が私に熱く語ってくださった内容とほとんど重なる。正直なところ,今回改めて読み直してみて,当時の私がシュナイドマン博士の語る内容を完全に理解していたかは自信がない。私がその理論を十分に理解するまでにさらに17年という月日が必要だったのかもしれない。むしろ,あまりに早く翻訳の機会が回ってこなかったことは,まず私にとって,さらに,その理論を紹介されるシュナイドマン博士にとって,そして誰よりも本書を日本語で読んでくださる皆様にとって,幸いだったのではないかと思う。
 最近でこそ,心理学的剖検とか,ポストベンションといった言葉は,わが国でも自殺予防の分野で活動している人々にとってごく普通に使われるようになってきたが,これらはシュナイドマン博士による造語である。新しい領域に取り組んできて,その活動を表現する適切な言葉がなかったため,シュナイドマン博士自身が作り出した術語であるのだ。
 たとえば,心理学的剖検は,本来,不審死が生じた場合,それが病死,事故死,自殺,他殺のいずれかに決定する補助手段として考案された。とくに,故人をよく知っている人と面接し,可能な限りの情報を集め,死のタイプを特定することが目的だった。この方法はさらに広く応用されるようになり,明らかに自殺とわかっている場合でも,自殺が起きてしまった背景を理解するために実施されるようになった。心理学的剖検は自殺研究において,今では世界中で広く活用されている。
 ポストベンションも重要な概念である。悲惨な死(なかでも自殺はその代表例である)が生じた後,遺された人は嵐のような感情に圧倒される。最悪の場合は,遺された人が,うつ病,不安障害,PTSD(心的外傷後ストレス障害)などになってしまい,専門的な治療が必要になることさえある。また,心のバランスを崩すばかりでなく,実際に身体の病気にかかったり,外傷を負う危険さえ高まってしまいかねない。そこで,ポストベンションでは,重要な絆のあった遺された人に対するケアの必要性を強調している。わが国では毎年3万件以上の自殺が生じている。未遂は少なくともその10倍と推定されている。そして,未遂あるいは既遂自殺が1件起きると,遺された人の最低5人が深刻な心の傷を負うとされている。したがって,自殺はわが国だけを見ても,死にゆく人3万人だけの問題ではなく,百数十万人のメンタルヘルスを巻き込む深刻な問題であり,ポストベンションの重要性に光が当てられつつある。
 この他にも,遺書の研究に関してもシュナイドマン博士は有名である。若きシュナイドマン博士とファーブロー博士は検死官事務所で発見された遺書を調査する機会を得た。その対照群として,健康で自殺の危険のない人に,仮に自殺する状況を想像して,遺書を書くように依頼したのだ。このようにして,真正の遺書と,仮定の遺書を比較するという興味深い調査がシュナイドマン博士の初期の研究であった。当初,シュナイドマン博士は,遺書を用いて,自殺の危険の高い人の心理に迫ることができると考えていたようであるが,徐々に,あくまでも遺書を書いた人物の全生活史に照らし合わせた上で,遺書を検討することによって,その意味が浮かび上がってくるという考えへと修正されていった。
 以上,紹介したのは本書のごく一部である。シュナイドマン博士の代表的な業績が本書に含まれているので,是非,読んでいただきたい。中には,現代の精神医学や心理学の知見から考えて,首をかしげるような主張がまったくないわけではないが,自殺の危険の高い人を治療していくという視点から,シュナイドマン博士の研究の足跡を知り,博士が何を訴えたかったかを理解する大きな手がかりとなると思う。
……(後略)

12005年3月  高橋祥友