序  文

 1981年に出版された著書にウェンディとクライン両教授は,概略次のような症例を記載している。
「ニューヨークの町を歩いていた23歳の女性が突然恐怖に襲われ,心臓がドキドキし息がつけなくなった。親切な人が病院の救急室に運んでくれたが,自分には何が起こったかわからず,呆然自失の状態であった。心電図や血液生化学など型通りの検査で異常がなく,めまいや動悸が続いていると訴えても病院のスタッフにとげとげしく対応されるだけだった。その後同じような発作に見舞われ慢性の不安状態に陥ってしまった。低血糖症,褐色細胞腫,過呼吸症候群も疑われ徹底的な検査を受けても異常は見出されなかった。どの医者も口をそろえて,彼女は思い病気すなわち精神病ではないが,やはり精神科医に診てもらうべきであると言った。精神科受診に拒否的であった彼女も,大学時代にフロイトについて学んでおり,自分の神経症は不愉快な無意識的性衝動や攻撃衝動に関連していて,それらの衝動を抑圧しようとするから発作が起こると思いはじめ精神分析医受診を決断した。分析医は週3回の自由連想が必要と述べたが,高額の費用がかかるので週2回から始めた。分析の過程で発病迄に先立つ彼女の生活の詳細が詮索され,隠れた意味の解釈が行われた。自由連想と解釈が繰り返されたが,2年の歳月が過ぎても治療は遅々として進まなかった。4年間分析治療を行ったが,結局一進一退のため,行動療法に変更したが,顕著な改善はみられなかった。ところが抗うつ薬イミプラミンを服用したところ不安が取れ仕事にも復帰し1年以上も正常な日々を送っている。」
 本例は,1980年に発表されたDSM-Ⅲにはじめて記載されたパニック障害の典型例といえようか。従来より不安障害(神経症)の治療は精神療法が主体であり,薬物療法は補助的に用いることが通常行われていた。パニック障害に関しても精神療法,時には精神分析療法が施行されたが満足すべき結果は得られなかった。ところが1960年代にクラインがこのような症例には,抗うつ薬イミプラミンが著効を示すことを実証した。パニック障害に関しては,4半世紀を経てわが国でも一般医から精神科医までその概念が啓発され普及し,十分な理解のもと正しく治療されるようになってきている。すなわち従来の神経症治療とは逆にまず薬物による生物学的治療を主体とし,必要に応じて認知行動療法的治療などを付加するといった治療法の有効性が高いことが認識されたのである。
 本書は,精神療法第28巻第1号2002年から第29巻第6号2003年までの各号にわたり12回にわたって連載した「臨床家のための精神薬理学」を纏めたものである。精神薬理学を専門とされない臨床医や臨床心理士などのコメディカルの方々に現在精神科臨床で使用される薬物を中心に向精神薬について解説している。現在は,統合失調症や気分障害はもとより,従来その発症に心理的要因の関与が大きいとされていた不安障害まで,その成り立ちから治療に至るまで生物学的要因への配慮がなければ適切な診断治療が円滑に施行されない時代を迎えている。とくに各種向精神薬が精神科治療の中心をなしている事実は,医療従事者に,薬物に対する正しい認識を求めているといえよう。昨今,主として統合失調症を適応症とする抗精神病薬は,非定型とよばれる第二世代の時代に入っており,また不安障害やうつ病を適応症とする抗うつ薬はSSRIやSNRIがもっぱら用いられる。これらの薬物による治療のベネフィットはそのリスクを上回っているか,いないのかは常に慎重に検討していく必要がある。またその使用に際しては科学的な根拠に基くもの,すなわちエビデンスの確立したものを優先したい。いずれにしろ,薬物療法を適切円滑に施行するためには,良好な治療者患者関係の樹立が何よりも重要であり,薬物療法を精神科治療体系の主要部分と位置づけ,精神療法をはじめとする他療法との円満な融合を心がけたい。なお本書では,昨今その進歩,発展のめざましい薬物を含む生物学的精神医学的側面のデータは最新のものを記載しているが,この分野の変化は急速であり,臨床に携わる関係者は常にこのような変化に敏感であることが望まれる。

2005年3月  上島国利

*Wender PH and Klein DF:Mind, Mood, and Medicine; A guide to the new biopsychiatry. Plume Books, 1981.(邦訳:「現代精神医学への招待」松浪克文・福本修訳.紀伊国屋書店.1990年)