おわりに

 2002年6月,私はアメリカに渡り,メディカル・ファミリーセラピーのセミナーに参加した。英語力もない私であったが,どうしようもない衝動にかられ,スーザン・マクダニエルを訪ねたいと思った。スーザンは,メディカル・ファミリーセラピーの推進者として知られていた。以前から私は,一般医療における家族療法や,介護家族のための家族療法を実践していた。同様のことを先駆的に行っている彼女を訪ねたいと思ったのである。ロチェスター大学医学部には,スウェーデン,スペインなど米国内外から,医師,ソーシャルワーカー,心理士,ファミリーセラピスト,看護師たちが,メディカル・ファミリーセラピーのトレーニングを受けにやって来る。
 スモールグループでは,源家族ワークを中心とした家族療法トレーニングが行われた。そこでは,自分のジェノグラムを提示する。誰もが,家族の歴史を語らねばならない。自殺者のいる家族,精神障害者を抱えた家族,身体障害者を抱えた家族……各々が正直に,自分の家族をジェノグラムにした。私は,自分のジェノグラムを書きながら,自分の中にあるケアにまつわる体験を思い出していた。
 私はグループの中で,黒人の老練な産婦人科医のハリーに親近感を持った。参加者の中の非白人は,ハリーと私であった。大柄な黒人のハリーは腰が悪くて,ゆっくりと歩く。私は一緒に歩きながら懐かしい気持ちになっていた。そして,その感情は,どこから来たのかと思った。ジェノグラムを提示した夜,夢を見た。祖父と私が故郷のあぜみちを歩いている夢であった。大柄なハリーと小柄な私は,幼い頃の祖父と私であった。私は,心の中で祖父と再会していたのだろう。遠い異国の地で,私は心の中で祖父ともう一度出会った。

 5年ほど前であったろうか。失語症になり言葉を失ったお婆さんが,精神科外来にやって来た。その人は一人娘と一緒に生活してきた。親戚との付き合いもなかった。一人娘はがんで,1カ月前に他界した。一人暮らしになったお婆さんは,脳梗塞となり,家の中で倒れているところを近所の人に発見された。娘のためにコツコツと生きてきたのだろう。貯金がずいぶんと貯まっていた。ソーシャルワーカーからの依頼で,私は彼女の財産管理能力の鑑定のために関わることになった。多くのスタッフが,口の聞けないその人に,何かできないものかと真剣になっていた。
 毎週,その人は車椅子で診察室にやって来て,深々とお辞儀をして帰る。そして,笑顔を見せてくれる。その笑顔が,私の心の何かを刺激して,私は毎回,胸に込み上げるものを感じた。その人の笑顔は生き仏のように見えた。今まで体験したことのない,たくさんの親切に応えた笑顔であった。
 精神鑑定が済んでも,私の中では,一人になったお婆さんのことが気になっていた。ソーシャルワーカーに転院先を聞いて,見舞いに行った。誰も見舞いに来てくれない彼女がとてもかわいそうに思えたからだ。一人の患者にこんなことをするのは,精神科医としては,いかがなものかと思った。しかし,その人に会いたいと思った。そして,見舞いに行った帰りの車の中で,私は気がついた。その人は祖母に似ていた。私は,彼女の笑顔に,亡くなった祖母の笑顔を重ねていたのだと思った。

 私は本書を執筆しながら,私が受けたケアの体験を思い出していた。「ケアとは相手の成長を助けること」と言ったのはミルトン・メイヤロフである。私は,自分がたくさんの人にケアされ,その体験の一つ一つが本書を執筆する原動力になったことを理解した。
 研修医の頃から東海大学精神分析研究会に所属していた私は,当時のメンバーの中心であった岩崎徹也(現日本橋学館大学教授),狩野力八郎(現東京国際大学教授),舘哲朗(現東海大学教授)といった諸先生から,精神療法と家族療法の講義やスーパービジョンを受けた。その体験は,今でも私の中に生き続けていて,私の臨床に多くの示唆を与えてくれている。
 私は,本書を他者の理論や技法を集めただけの内容ではない,もっと自分の体験に即した本にしたいと思った。本書は,私の心にあるケアの思い出が書かせてくれた本である。

 本書を亡き祖父母,渡辺亮と渡辺ユキに捧げる

渡辺俊之