まえがき

 本書は,遺伝医療の場における心理臨床について,実践に携わっている臨床心理士らによって,事例を中心にして執筆されるとともに,そこに臨床遺伝専門医等による医学的な理解を深める説明,さらに,チーム医療,不妊治療や周産期の心理臨床,法学やサポートグループ,親の会等,さまざまな角度からの視点が加えられて,まとめられたものである。
 心理臨床にとってこの道は端緒についたばかりであり,それを一冊の書物として公にすることは,時期尚早ではないかとの懸念が,監修を依頼された筆者にはあったが,今,改めて本書を通覧して,ここに収められたクラエントの方々の貴重な言葉を,広く多くの方に受けとめて頂くことこそ,今日の時代にともに生きるわれわれ人間のあり方を模索する大いなる助けになろうと感じている。
 ポストゲノムと呼ばれる時代を迎え,人間はこれまでとはまったく異なる状況に置かれている。それにもかかわらず,一般には,まだその認識はほとんどないように思われる。遺伝のことは他人事としてしか受け取っていない人が多いのではなかろうか。しかしながら,遺伝医学においては,日々,新たな遺伝情報が得られ,病気に関与する遺伝子がつぎつぎと発見されている。また,それに応える先端医療技術の進歩も目覚ましく,カスタム・メイド医療の可能性も見えてきた。各人に合った薬の処方ということに端的に現れているように,この方向性はたしかに理想的である。しかしそれは,国民総背番号制にも比すような,遺伝子次元の個人情報の基礎資料を作りえる技術が生まれてきたということでもある。
 このような今日の状況は,一方では,将来の治療や予防に役立つという希望を与え,また,自らの運命を主体的に選び取っていく道が開かれつつあると言えるのであるが,他方,病気というものを人間がどのように受け取るかについて,しっかりと腰を据えて考えておかないと,早急に病気を取り除くことのみに目が奪われ,人間存在そのものは置き去りにされることにもなりかねないのである。しかも,分子遺伝学の誕生とその後の驚くべき進歩はここ数十年のことであり,医療実践や研究が先行し,十分な思索が積み重ねられた臨床哲学的な基盤はまだ無いに等しい。
 本書において取り上げられている「遺伝」が提示している問題は,個人が一人で抱えるには余りにも大きく重い。そこには根本的な倫理がかかわってくるからである。この時代に生きる者すべてが,人間の病いをめぐって,今,起こっている状況をともにし,今後の方向性を見出していくことが求められていると思う。
 心理臨床はこのクライエントの言葉をひたすら聴くことから始まる。心理臨床において「聴く」ということは,聴く者自身が全人格をかけて専門性を洗練させて聴くということである。そこから,クライエントの歩みをともにする心理臨床の第一歩が始まる。遺伝医療の心理臨床は,その課題の大きさに比べて,まだまだ未熟である。本書の出版がその第一歩となることを願う。
 末筆ではあるが,この場を借りて,その言葉を公にすることを許可して下さったクライエントの方々に厚く感謝申し上げたい。また,本書執筆者の医師や臨床心理士の多くが所属している日本遺伝カウンセリング学会古山順一前理事長からあたたかい序文をお寄せ頂いた。深謝したい。……(後略)

  伊藤 良子