あとがき

 私は言葉の使い方が不自由で,下手である。また本書の中に対人恐怖の事例が多いことからもわかるように,私自身対人恐怖的な傾向があり,社交場面で人といると気を使ってエネルギーを費やしぐったりしてしまうが,これは自分の話し方が下手だからだと長い間思っている。この特徴は子ども時代から変わらないし,訓練分析のおかげでかなり良くなったものの,程度の差こそあれ今もそうだ。だから無意識に(器官劣等の補償の原理にしたがって)この職業についたように思うし,この専門に入ってからも言語発達,言語療法,言語理論などにかかわってきたのは,この子ども時代からの特徴を自分なりに克服しようとする努力の結果であったと思っている。
 もちろん特徴は特長でもある。だから言葉の使い方にかなり敏感で,それをどうやったらうまく使えるのか,この職業についてから20年ほどになるが,ずうっと考え続けてきた。そしてまあ,これぐらいのところで本にしても良い程度の蓄積はできたと思った。傷つきやすい人たちは,言葉の一言,あるいはそこに含まれる含意や言い方で簡単に傷つき,そして関係が破綻してしまう。そんな体験はこれまでにも,そして今も日常茶飯事だが,少なくとも専門的な立場になれば,今の私は10年から5年ほど前から,かなり自分が失敗の少ない治療者になったという実感を持っている。代わりに,不思議なことに(でもないか),若いときのように劇的に治る事例も少なくなった。それでも確実性という点では,それなりに心理療法家の成功率は上がっているという実感があり,その理由を言葉にしたいという思いがあった。本書の出版はそれが大きな動機になっている。収録した論考はかなり古いものもあるが,今回すべて書き直した。
 私が本書を書くときに,読者として(かなり勝手に)想定した人は,精神分析プロパーの人ではなく,一般に心理療法やカウンセリング,あるいはソーシャルワークやケアの仕事についている人たちである。言葉を使って人と出会い,そうしてある程度長いあいだ付き合っていく必要がある人たちである。そのため,本書の事例はどれも正式な,長期的な精神分析や精神分析的心理療法の事例ではなく,どちらかと言えば,最低限の出会いや週1回の心理療法,遊戯療法的な,しかもかなり短い出会いで,そうした関係のなかでも精神分析が十分に生かせる,そのことを伝えたかった。正式な精神分析,つまり週4回以上,寝椅子を使った自由連想法で得られるものは多いが,現実にそういう(設定を使える)立場でなくても,同じような効果を得るためにはどうしたら良いか,たとえば一緒に風景を見るように面接をする,分析的な悠長さを持つ,声を重視する発想を持つ,カットオフ技法を使っている,設定の力動的な理解から相互法的な面接を考える,メタファーを発見して使用するなど,どの章もそうした発想から書き込んである。もちろん読者のなかで本格的な精神分析に取り組み,寝椅子を使ったり,自由連想法をつかったりする,そうした人々が増えてくれたら,同僚として,それは嬉しいことだ。
 それでも臨床例に関して残念なことがある。それは10年以上たった事例以外公には報告しないという原則を自分に課していることである。そのため,第8章と9章の間には,今自分が行っている臨床例が入ればわかりやすいが,そこに一種のラグが生じて,臨床,とくに精神分析を中心とする本当の姿は示せないという問題が生じる。私は北山修先生を介してウィニコットを,そしてその後自分なりにサリバンやラングスの技法に触れ,今ではクラバーら英国独立学派,あるいはグレイ,ギル,シェーファーといった米国の対象関係論以後の諸学派,彼らの強い影響下に臨床の仕事をしているが,その理論はともかく,実際の臨床例についてはそのまま報告できない。今後数年後に,この続編を書くことになれば(やはり同じ問題は生じるが),ひとまずクラバーやグレイ,シェーファーの学説は,私の臨床理論になって描かれることになると思う(こうやって続編を期待させるようなハリウッド的手法か)。
 事例報告についての原則の理由は最後の章にも書いたが,書くことそのものが臨床に影響を及ぼすため,熟慮なしには事例報告しにくい。この書くことの問題のために,フランソワーズ・ドルトが臨床の仕事をやめたのは有名な話だが,これは「今ここでも」私にとって書くことのなかに含まれている不条理である。フロイトは狼男の事例から多くを学んだためだろうが,結果として晩年亡くなる直前になって,自分の技法に変化があったことを報告し始めた。こうした後から報告して,最初の主張を信じた弟子たちにとっては肩透かしのようなことは,私たちの業界ではよく起こる,運命なのだろう。ここでも勘弁願いたい。
……(後略)

平成17年8月1日