あとがき

 このテキスト出版のアイデアは,今から3年前,氏原寛先生を帝塚山学院大学大学院にお迎えした折りに出てきたものである。やや歳月が流れた感もするが,ここに心理臨床家14名の執筆による「現代社会と臨床心理学」という心理学テキストができあがった。我々編者の意図をおくみ下さり,快く執筆を引き受けてくださった諸先生方には,この場をかりて,あらためて謝意を表する次第である。
 さて,本書の構成であるが,大塚義孝先生の「臨床心理学の歴史」に始まり,氏原寛先生の「こころについて」で締めくくる14章からなっている。全体を見ていただければ,わかるように,3部構成のうち,真ん中第2部に心理臨床の基礎として,発達,知覚,人格についての解説の章をおき,その前後の第1部と第3部で,現代の日本社会の現実,子ども,青年,おとなの心の状況を臨床心理学の立場から解説する章をおいている。心理学,あるいは臨床心理学のテキストとして,従来にないスタイルのものにしようと腐心した結果である。第1部と第3部の章では,いずれも,今日のマス・メディアの世界をにぎわすトピックスを取りあげているが,これらは私たちの日常の中に起こっている身近な「こころ」の現象でもある。
 現代社会は,ひところ言われた,少子化,接家族化,父親不在,女性の地位向上などの家庭状況の変動や,高学歴指向のエスカレートに伴う受験地獄を中核とする,いわゆる教育爆発の情勢に加えて,コンピュータ,インターネット,モバイル通信の驚異的発展,ビデオ,CD,TVゲームなどの急浸透による情報化社会,あるいは脳死や遺伝子組み換えに代表される科学万能思想の蔓延と,経済的豊かさによる金銭感覚の麻痺などといった状況が生まれている。これに連動しての価値観の大幅な変容と多様化がおこっているし,大人社会の中の大人モデルが失われているようにも思われる。まさに「変化のはやい,秩序の見えない時代」になっているようで,物質的な豊かさとは裏腹に,人間関係が希薄化し,精神的な不安定さを生みだしているし,また地域社会のような中間的な共同体の機能が崩壊し,そこに暮らす人間個々の「居場所」が失われているような気もする。当然のことながら,これらのことは,子どもや青年の生き方,行動に大きく影響を及ぼしているわけで,子どもから大人への移行をより困難なものにすると同時に,さまざまな意味でのボーダレス的な生き方が許容される文化的土壌をつくり出している。本書第1部の各章に述べられている現代青年に見られる自己愛傾向と現実社会や人間関係からの退却,バーチャル世界への逃避と現実感の変質,内的葛藤を抱えることの困難さと解離傾向などは,現代社会が青年期になげかけた影とも言える現象であろう。
 しかし,一見危うく,病的にさえみえるこれらの現象も,その底流には,Blos, P.らに代表される発達論のなかで指摘されているような思春期青年期心性の基本的なダイナミズムが動いていて,表現型,顕型こそ変われども,根底から様相が変質したとは言えないように思える。たとえば,親離れにともない学校は家庭外での居場所として機能することになるが,その居場所こそが,過剰な適応をしいる場,仮面(偽りの自己と呼べるものかもしれないが)をつけてのパフォーマンスの場となるため,自己を多面的に演じ分けていかなければならない「しんどさ」が発生するのである。このことは,まさに自己喪失の危機でもあり,主体としての意識の連続性が絶たれる事態に陥れば,自己は断片化したり,あるいは解離の現象として自他を苦しめることになる。過剰適応的であるがゆえに,失敗しやすく,大人からすれば,些細なことのようにみえる出来事につまづいてしまい,その際,心の中に封じ込まれていた別の自分が自傷,他傷も含めて破壊的に暴走化してしまうのである。また青年期は,通常「夢こわし」(氏原寛『ライフサイクルと臨床心理学』金剛出版, 2004)の時期ともいわれ,自分がもはや特別な存在ではないことを認め,それまでの全能的な自己像を捨てて,足が地についた現実的な自己像(理想像)を形成していかねばならず,理想と現実とをどのようにすりあわせていくのかという状況が立ち現れてくる。漠然とした,抽象的な理想自己はあるのだが,実際にそれを達成するための具体的なプランが見つからないとか,何をすればよいかがわかっていたとしても,決定的な能力不足のために実現が不可能であることに気づいた場合などである。現実はこのような惨めな自分の姿を目の前に突きつけてくることになり,こうした状態に陥った青年がしばしばとる行動が,逃避や解離といった自己防衛行動だとも言える。これらは本来ならば,心理的なバランスを取り戻すための心の安全弁として機能するのであるが,その方法や程度が社会的に大きく逸脱してしまう危うさが今日の子ども,青年には見られるのである。また子どもや青年を取りまくメディアは,彼らの自己愛的万能感を満たしたり,多面化した自己を生きるうえで絶好の環境を与え,そこに安住させてしまうのである。しかし,このような彼らの行動を単なる現実逃避だ,享楽的・刹那的だとして軽々に非難することもできないように思われる。そこには,現実を直視すればするほど,離れたくなるという葛藤や,適応への過剰な努力と無気力さという両極に揺れる強迫的心性が見え隠れする場合もあって,仮想現実に身をおき,現実を相対化して生きるということ,それ自体がそのような葛藤との戦いの果てに,彼らが学習した一つの対処行動だとも言えるからである。
 以上,筆者の私見をまじえつつ,本書の内容を概観したつもりであるが,本書は単に現代の社会や現実を嘆き,憂えているのではない。現実を見つめる自分自身を問い直し,自分への確かな意識を維持できる「しなやかさ」,それは自然体の意識とでも呼べるものかもしれないが,そのような力,態度を持つことが,今,私たちに求められていることを伝えたいのである。さらに大切なことは,このような現実から何を学ぶかであろう。たとえば,「こころ」の発達を考えた場合,最終章では,「こころ」は未発の可能態であり,対象との相互作用のなかに感じとられるものであると述べられているが,このことからすると,人間のみならず,自然現象を含めて,あらゆるものとの関係性,さらに関係性を営むプロセスにおいて育まれる感覚や能力というものをあらためて考えてみることが大切に思えてくる。
 いささか,長くなってしまったが,読者の方々には,是非,このテキストをとおして,子ども,青年が生きる現実,「こころ」の問題に日々関わっている「臨床心理士」の視点,考え方を理解してもらいたいし,さらに言うならば,何故に,今,臨床心理学が求められるのかを感じとって頂きたいと願う次第である。
……(後略)

西川隆蔵